ベッシー・ヘッドは、小説の中でそれぞれの登場人物の内面を描き出す。

善人でも悪人でもないひとりひとりの人間を。美しいボツワナ農村の背景描写があったと思えば、登場人物の会話、そして会話をきっかけとするその登場人物の深く長い思考の世界へ。
視点が流れるように変わっていく文章を追っていくうちに、いつしか読者は共感を覚え感情移入していく。

『雨雲の集まるとき』の邦訳版を刊行して数か月が経ち、多くの方からの感想やコメントをいただいている。様々な視点に気づかされることが多く、また感動の声にベッシー・ヘッドの力を確信もする。

物語は、アパルトヘイト時代に政治犯として刑務所に入っていた元ジャーナリストの青年マカヤの越境シーンから始まる。

このとき、南アフリカがどのような状況であり、マカヤがどういう境遇の人間だったかという背景情報がほぼ書かれていないので、日本の読者にはわかりにくい部分もあるだろう。

作品は、ボツワナの農村が舞台だが、アパルトヘイト時代の南アフリカが土台となっている。これは政治的な差別構造というより、それを生み出す人間の心の中を描いて本質を突く物語だ。

だが、肝心のアパルトヘイトという言葉も出てこないし、社会の説明をするわけでもない。
それがもはや当たり前の前提になっているからだ。でも日本のひとにはおそらくそれが伝わりにくい。
(それもあって、あえて日本語版のあらすじの冒頭にはいきなり「アパルトヘイト時代、南アフリカ」と書いた)

マカヤはどんな青年だろうか。

当局に「テロリスト」と扱われ、逮捕され、拷問を受けた――そんなジャーナリストや活動家が数えきれないほどいた時代だ。マカヤはそんな一人だ。辿り着いたボツワナの農村で、英国人青年ギルバートに初めて会ったとき、ふたりはこんな会話を交わす。


「君は、具体的に何から逃げようとしているんだい」
「逃げるというよりもむしろ」マカヤは、「飛び込もうとしていると言う方が正しいかな。僕は妻と子どもがほしいんだ」と答えた。
 予想もしていなかった答えに、ギルバートは半分驚き半分面白がったような顔をした。
 マカヤは笑った。
「僕は、自分が死んでからも自分の一部が生き続けていてほしいんだ」とマカヤは言った。「それに、この二年のあいだはすごく死の近くにいて、何よりもまず先に妻となる人を見つけることがいちばんだと思ったんだ」
「君はそんなに単純なのかい」訊き返しながらギルバートも笑った。
「そうだよ」マカヤは答えた。
これを読んで、青年マカヤを平凡な人間だなと思うだろうか。

そこを「アパルトヘイト」という文脈で考えてみてほしい。

一見、つまらないことを言うのはなぜか。それは、四六時中人権が踏みにじられ、命が奪われ、非人間的な生活を強いられている社会の中で、彼が求めていた「普通の幸せ」が手に入らないものだったからだ。

ここまでの彼の思考の端々に、そういう背景がすでに垣間見えている。
物語が進むと、やがて彼は深く傷ついて悪という暴力の中で生き抜いてきた心の奥の苦しみを吐露することになる。穏やかな顔をして、妻や子どもが欲しいと静かに言いつつも、そのどろどろとした言葉を彼に吐かせるまでの人生について、作家はヒントをちりばめている。

これが南アフリカだったのだ。

小説が書かれたのは、作家がマカヤと同じように亡命してから間もなくの1968年。
その後、1979年にベッシー・ヘッドは「南部アフリカにおける文学を形作る社会的・政治的圧力」と題したエッセイの中で、マカヤのことをこのように書いている。



私の最初の小説は個人的に私にとって重要だ。それは私の唯一の真の南アフリカ作品で、黒人南アフリカ人の視点を反映している。小説の主人公である黒人南アフリカ難民の男は、ほとんど無味乾燥で、純朴な、単純な心を持つ愚か者だ。しかしそれは黒人南アフリカ人の人格の真の反映なのである。私たちはあらゆる人権を奪われた抑圧された人々なのだ。私たちは自分たちの野心が掻き立てられるとはどういうことか知らないし、実際には差し迫った地平線上に解放を見ていない。
「愚か者」と言い切るその言葉の鋭さに、ベッシー・ヘッド自身の痛みが滲む。
マカヤへの批評であると同時に、自分自身への、そして同じ境遇にあるすべての人への言葉として読める。

物語の中のマカヤは、生存の危機を感じ続けて生きてきた南アフリカを後にする。
ただ平穏を求めて、人間らしい生き方を求め、ボツワナにたどり着いて初めて、今度は自分の心の闇に向き合わなければならなくなるのである。

それは、作家ベッシー・ヘッド本人がたどった道でもあるのだ。

日本語読者には、この物語の深いところに触れてほしいと思って、ベッシー・ヘッドが残した言葉から少しのヒントをお届けしようと思う。

誰かにとって、人生の中で大切に読む一冊となるように。




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【83/100本】

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