自転車走行における違反への取り締まりが厳しくなり「青切符」が導入された。
ながら運転など明らかに危険な運転への取り締まり強化は必要かもしれないが、環境が十分に整備されないままに罰則が先走っているという懸念は、もっともだと思う。
日本では自転車専用レーンが整備されている場所は限られており、狭いのに車通りの多い道路もたくさんある。ルール通り車道を走れば余計に危険になり得る状況で、罰則を恐れながら走ることになれば、自転車に乗る際にいつも委縮してしまうだろう。
ながら運転など明らかに危険な運転への取り締まり強化は必要かもしれないが、環境が十分に整備されないままに罰則が先走っているという懸念は、もっともだと思う。
日本では自転車専用レーンが整備されている場所は限られており、狭いのに車通りの多い道路もたくさんある。ルール通り車道を走れば余計に危険になり得る状況で、罰則を恐れながら走ることになれば、自転車に乗る際にいつも委縮してしまうだろう。
環境が整う前から、ルールを作り罰を与える。
この考え方はいったいどこからやってくるのだろう。本質や事情を考慮せずにルール違反を責めることは、物事の順序が逆だという気がしてならない。なぜこの問題が存在するのかを考える前の思考停止であり、想像力の欠如でもある。
そして、誰かを手っ取り早く悪者にすることで、現状の課題に真正面から向き合わずとも、何らかの対処をしているというポーズを取ることができる。
この考え方はいったいどこからやってくるのだろう。本質や事情を考慮せずにルール違反を責めることは、物事の順序が逆だという気がしてならない。なぜこの問題が存在するのかを考える前の思考停止であり、想像力の欠如でもある。
そして、誰かを手っ取り早く悪者にすることで、現状の課題に真正面から向き合わずとも、何らかの対処をしているというポーズを取ることができる。
その構造は、昨今、外国人の「ルール違反」を執拗に責めるSNS上の言説にも通じる。表れ方は違っても、根っこにあるものが似ているのだ。
さらにそこへ、ルール違反なのだからいじめても叩いてもいいという、どろどろとした感情がここぞとばかりに噴き出す。何と悲しいことだろう。
そんな話を聞くといつも、小学校を思い出す。
わたしは小学校に馴染めない子どもで、いつでも自分が間違っているのではないかとびくびくしていた。学校には、理由如何にかかわらず決まりに従い、はみ出すものを徹底的に攻める精神性が根強く存在していた。ルールに従わない=悪=責めていい、という錯覚。
ルールを守る教育は、必ずしも従順で礼儀正しい人間を育てるわけではない。無条件にルールに従い、はみ出せば罰する、という訓練によって考える力は奪われ、責める思考は強化される。そうして育った大人たちが、この社会には大量に生み出されてきたように見える。
何らかの「悪者」を作り出し、それに罰を与えるという正義のポジションを確保することで、物事の本質や深刻な課題に向き合わずに済ませる。その精神は、頭から相手を悪者と決めつける排外主義にも、今の政府の態度にも感じられる。
色んな国で仕事をしていると、そんな我が国の特異性と息苦しさが余計に見えてくる。
そして、ルールさえ守ればと思考停止していると、いつしか気づかぬうちに、わたしたちの生活を支えていたはずの何かが、失われてしまうのかもしれない。
今の我が国は、そんな局面に差し掛かっている気がしてならない。
そして、ルールさえ守ればと思考停止していると、いつしか気づかぬうちに、わたしたちの生活を支えていたはずの何かが、失われてしまうのかもしれない。
今の我が国は、そんな局面に差し掛かっている気がしてならない。

Unsplash t Penguin
エッセイ100本プロジェクト(2023年9月start)
【82/100本】
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