ボツワナへ亡命してまだ間もない1960年代、まだ『雨雲の集まるとき』を書く前、農村の人々についてベッシー・ヘッドが書いたエッセイの中に、こういうくだりがある。
今でこそ、豊かに発展して都市部にはきれいな街も広がっているボツワナだが、この時代、とくに農村地域では、干ばつの影響もあって人々の暮らしは大変なものだっただろう。
アパルトヘイト時代、南アフリカでは日々、非人間的な社会で長い年月を生きてきたベッシーにとって、ボツワナの素朴だけれど静かで平和な村の風景で、ようやく南アフリカでの人生でばらばらに砕け散った心を取り戻していった。それが執筆につながる。
『雨雲の集まるとき』を読んでもよくわかるのだが、農村の風景が美しく目に浮かぶようだ。
そして、人々は温かくシンプルな暮らしをしている。
長編小説、短編小説に限らず、エッセイや手紙の中にも、このボツワナの暮らしの美しさを彼女は良く描いている。もちろん、干ばつの厳しさや暮らしの苦しさについても描写する。
その暮らしは、とくに1960年代のボツワナ農村ならなおさら、客観的な指標で見れば貧困ライン以下の生活だ。干ばつで食料が不足したり、質素な暮らしをしている。
でも、広大なアフリカの大地ような広い心で、人を愛する人々なのだ。
先進国による途上国への開発協力の世界から見て、その暮らしは課題山積みだろう。
経済的な貧困ライン、生活環境、保健衛生、食糧生産性、学校教育、乳幼児死亡率、インフラ。
どれをとっても、援助プログラムができてしまうくらいに。
でも、農村の人々はそれを課題と思っているだろうか。
何も思っていないとはいわない。
それでも先進国が外から指摘するほどに、問題意識を抱えて生きているわけではないだろう。
課題が山積みだ。
あれも不足している、これも欠けている。
課題を課題としているのは先進国の側だと、開発協力の仕事に携わっていると思うことは多々ある。それを思っていても、ただ淡々と仕事をこなす。この国には課題がある、と眉間にしわを寄せながら報告書をつくるのだ。
農村の人々は不幸な顔をして生きているだろうか。
「課題の基準」とは先進国が持ち込んだものだろうか。
結局のところ、何が正しくて何が正しくないのかなんて答えはない。
シンプルな農村での暮らしと人々の美しさ。
地獄のようなアパルトヘイト社会から抜け出してきたベッシー・ヘッドだからこそ、より鮮烈にこのことを感じたのだ。
アフリカに長い年月関わっていると、幸せも不幸も何のことをいうのかわからなくなるし、指標ではなくて人として真に豊かに生きることの意味を考えてしまうのだ。
ベッシー・ヘッドの文章を読んでいると、その感触が肌で感じられる。脳の芯で感じるように自然に想像できるのだ。

1960年セロウェ、ボツワナ。(photo by Patrick Kidner)
エッセイ100本プロジェクト(2023年9月start)
【68/100本】
貧困はアフリカに住みついている――まるで静かな第二の皮膚のように。おそらく地球上で唯一、無意識の尊厳をまとってそれを身にまとう場所だろう。人々は、何年分もの泥がこびりついて割れ、つま先が飛び出したあなたの靴など見下ろしはしない。彼らはまっすぐに、そして深くあなたの目を見つめ、あなたが友か敵かを見極める。それだけが重要なのだ。ある程度、この眼差しや、この鋭い人間への認識は、周囲に広がる大地を映し出しているのだと私は思う。アフリカの空にも大地にも果てはない。その広大さの中に、人間を最もシンプルな姿まで剥ぎ取る、ある種の用心深さがあると言えるだろう。もしそうでないなら、私の村の人々のありえないほどの人間性と極端な優しさには、何か他の、測り知れない理由があるに違いない。(「村の人々」Village people, A Woman Aloneより)
今でこそ、豊かに発展して都市部にはきれいな街も広がっているボツワナだが、この時代、とくに農村地域では、干ばつの影響もあって人々の暮らしは大変なものだっただろう。
アパルトヘイト時代、南アフリカでは日々、非人間的な社会で長い年月を生きてきたベッシーにとって、ボツワナの素朴だけれど静かで平和な村の風景で、ようやく南アフリカでの人生でばらばらに砕け散った心を取り戻していった。それが執筆につながる。
『雨雲の集まるとき』を読んでもよくわかるのだが、農村の風景が美しく目に浮かぶようだ。
そして、人々は温かくシンプルな暮らしをしている。
長編小説、短編小説に限らず、エッセイや手紙の中にも、このボツワナの暮らしの美しさを彼女は良く描いている。もちろん、干ばつの厳しさや暮らしの苦しさについても描写する。
その暮らしは、とくに1960年代のボツワナ農村ならなおさら、客観的な指標で見れば貧困ライン以下の生活だ。干ばつで食料が不足したり、質素な暮らしをしている。
でも、広大なアフリカの大地ような広い心で、人を愛する人々なのだ。
先進国による途上国への開発協力の世界から見て、その暮らしは課題山積みだろう。
経済的な貧困ライン、生活環境、保健衛生、食糧生産性、学校教育、乳幼児死亡率、インフラ。
どれをとっても、援助プログラムができてしまうくらいに。
でも、農村の人々はそれを課題と思っているだろうか。
何も思っていないとはいわない。
それでも先進国が外から指摘するほどに、問題意識を抱えて生きているわけではないだろう。
課題が山積みだ。
あれも不足している、これも欠けている。
課題を課題としているのは先進国の側だと、開発協力の仕事に携わっていると思うことは多々ある。それを思っていても、ただ淡々と仕事をこなす。この国には課題がある、と眉間にしわを寄せながら報告書をつくるのだ。
農村の人々は不幸な顔をして生きているだろうか。
「課題の基準」とは先進国が持ち込んだものだろうか。
結局のところ、何が正しくて何が正しくないのかなんて答えはない。
シンプルな農村での暮らしと人々の美しさ。
地獄のようなアパルトヘイト社会から抜け出してきたベッシー・ヘッドだからこそ、より鮮烈にこのことを感じたのだ。
アフリカに長い年月関わっていると、幸せも不幸も何のことをいうのかわからなくなるし、指標ではなくて人として真に豊かに生きることの意味を考えてしまうのだ。
ベッシー・ヘッドの文章を読んでいると、その感触が肌で感じられる。脳の芯で感じるように自然に想像できるのだ。

1960年セロウェ、ボツワナ。(photo by Patrick Kidner)
エッセイ100本プロジェクト(2023年9月start)
【68/100本】
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