最近、ノート術やジャーナリングについて積極的かつ体系的に発信しようとしている。
noteやYouTube動画で紹介しているのは、昔から自然にやってきた習慣のことなのだが、最近それが「誰かのインスピレーション」以上の意味を持つと感じ始めている。

書くことは個人的な行為に見えて、社会と深くつながっているのではないだろうか。

ノートは「解像度を上げる」ための道具

ノートを書くとは、物事を言語化し、整理し、掘り下げることだ。
自己分析のようでもあるが、それにとどまらず「惑わされないための営み」でもある。
言葉にすることで曖昧な思考に輪郭が生まれ、世界がクリアに見えてくる。
つまりそれは、自分自身にとってだけでなく、社会においても大切なことになり得るのだと思う。

情報過多の時代、「わかりやすさ」に流れる

テクノロジーの進展によって、私たちは長く「情報過多の時代」に生きている。
現代人は一日に江戸時代の一年分、平安時代の一生分の情報を浴びているといわれるが、時代が進むほどそれは加速していくだろう。
情報過多の社会で起きていることは、「考える力」「感じ取る力」の麻痺ではないだろうか。

人はもともと、単純でわかりやすい物語に流されやすい。
無意識のうちに自分の先入観に合致する情報ばかりを拾い集めていく。善悪、敵味方、白黒。そうした構図に安心してしまう傾向がある。

典型的なアフリカ像や、固定化された他者イメージもその延長にある。
合致しないものを排除し、理解できないものを否定する心理だ。情報過多の中で、取捨選択が単純化を助長し、偏見や誤解を拡大していく。
そしてその果てに、排外主義的な感情が生まれていく。自分たちの権利が脅かされている、「外国人」(それはどこの誰だろう)はこうであるとして敵をつくる。その恐ろしさに深く思い至ることもなく。

ノートを書くことは「惑わされない」ための行為

ノートを書くことは実に個人的な行為に思えるかもしれないが、単なる自己啓発ではなく、自分を見失わないための手段でもある。

たとえば感情分析だ。
「むかつく」「悲しい」「寂しい」など、感情の背後にある本当の理由を掘り下げていく。
その感情を持ったのはなぜなのか。自分の本音はどうなのか。

怒りは二次感情だという。その後ろに隠れているのは、実は悲しみや不安、苦しさ、寂しさなどであるということ。怒りだけでなく様々な感情もこうした連関があるのではないか。

感情の根をたどることで、行動が変わり、人との関係も変わっていくものだ。
書くこともなく、立ち止まって自らの内面を掘り下げたり、理由を探ることもないままでは、怒りや攻撃性が次第に膨らんでいく。わからないから、ますますわかりやすい物語に傾き、感情の沼にはまっていく。
その先に、社会的な排除や分断の心理が生まれてしまうこともあるだろう。

「小さなノート」が社会の解像度を上げる〜雨雲出版のビジョン

自分自身の感情ひとつとっても、人はそれほどその根源をわかっていないものだ。
だからこそ、自分の内面についてノートに書き、掘り下げ、深めていく。このプロセスが、他者や社会への解像度を上げる、理解を深めることにつながるのではないだろうか。
個人的な内省が、実は社会的な洞察への入り口になるのだと思う。

雨雲出版のビジョンは「言葉と対話で世界とつながる恵みの雨を」である。最近、本づくりに限らず、ごく小さなノート術やジャーナリングも、根底では同じ営みだと気づいた。

言葉で世界を見つめ、対話を生むこと。
その原点は、ひとりのノートの中にある。

書くことを通じて世界とつながる。
その大切さを実感する人が少しでも増えること。

それもまた、雨雲出版の大切な仕事だと感じている。

20251109_083938867_iOS 1


エッセイ100本プロジェクト(2023年9月start)
【67/100本】