前回の記事の続きです。前回は、作品の背景についてお伝えしました。



ここでは、作品の中から大切なフレーズを引用しつつ、少しだけコメントを入れたいと思います。
本を読むときの少しの参考にでもなれば嬉しい。

【あらすじ】
アパルトヘイト時代、南アフリカ。政治犯として刑務所で二年間を過ごしたジャーナリストの青年マカヤは、国境近くに隠れて夜を待っていた。闇に紛れて国境フェンスを乗り越え、新たな人生へ踏み出すために。たどり着いたのは独立前夜の隣国ボツワナの村ホレマ・ミディ。農業開発に奮闘する英国人の青年ギルバートと出会い、初めて農業・牧畜に携わることになったマカヤ。しかし、非人間的なアパルトヘイト社会の南アフリカとはまるで違う、自由の国であるはずのボツワナにも抑圧者は存在した。マカヤはこの国の抱える人種主義や抑圧の問題、人間の善悪、そして干ばつの苦しみを目の当たりにする。深い心の闇を抱えたマカヤは、やがて村人との出会いで傷ついた自らの心を癒していくが……。



■マカヤが国境フェンスを越える前の語り


「お前さんは部族主義から逃げている。しかし、目の前にあるのは世界最悪の部族国家だ。我々バロロンはバツワナとは隣人だ。だがうまくやってはゆけない。目の前の扉から先のことは何も考えない愚鈍な連中だ。部族主義は連中が何より好きなものだ」
 青年は笑い出した。「嫌だなあ、お父さん」と彼は言った。「僕は自由の地に踏み出したいだけなんですよ。ひとのことなんてどうでもいい。白人のことだって何だって、気にしてはいない。ただ、自由な国に暮らすのがどういうことなのか、感じてみたいんです。そうしたら、僕の人生の邪悪なものが正されていくかもしれない」
国境に接する南アフリカの村で夜になるのを待つマカヤを匿う老人。国境を超える亡命者たちから、話を聴き出そうと躍起になっている。マカヤは多くを語らないが、ここで口にした「自由な国に暮らす」というのは、本音のひとつだったかもしれない。これからの物語の展開を示唆する最初の重要なセリフ。


 最初、彼の周りに動くものは何もなかった。自分と足音と、曲がりくねった小道だけ。日の出にさえも驚かされた。彼はずっと、連なる丘の上から射し込む太陽の光が谷間を目覚めさせるものだと想像していた。しかしこの大地は平坦で、朝の陽射しが金色の光の筋になって地面を這うように広がっていく。朝の光は木々にまとわりつく闇を次々と押し除け、いつも巨大な金色の輝きが木々に引き裂かれ宙へと拡散していく。不意に太陽がすべての絡みを一掃し、脈動する一つの白い球が夜の名残をすべて吹き飛ばす。あまりに突然陽が昇ったので、鳥たちはずっと起きていたふりをしなくてはならないくらいだった。
国境フェンスを乗り越え、ボツワナでの初めての夜が明ける。情景描写の美しさ。風景に重なるように、深い心の声が織り込まれる。


 

視界の限り、広大な砂と低木が広がっているだけだったが、何故か魅惑的な美しさを湛えていた。あるいは、彼自身の孤独と混同したのかもしれない。もしかしたら、あの狂ったように飛び回る鳥たちのせいかもしれない。あるいは、地球がほんのつかの間、金色の輝きで自らを飾り立てたその姿のせいかもしれない。または、ただ愛すべき国を欲して、目の前にあるものを選んだだけだったのかもしれない。しかしいずれにせよ、彼はただ静かに、この乾燥した不毛な地を故郷と決め、旅路の終わりに辿り着いたのだ。

■ボツワナでの最初の日、老人ディノレゴに出会う

 「だが、お前さんは教養ある人に見えるし、話しぶりもそうだ」驚きながら老人は言った。
 マカヤは笑い出した。「教養ある人間は、人生の岐路に立ってしまうのです。一方はおそらく名声と地位へ導く道で、もう一方が心の安らぎへ導く道です。僕が捜し求めているのは心の安らぎの道なのです」
「名声と地位」そして「心の安らぎ」。この二つの例示は各所に出てくるもので、物語の一つの鍵でもある。ベッシー・ヘッドは同様の表現を別の作品や手紙にも使っている。そのうちのひとつが、雨雲出版オンラインストアでの『雨雲の集まるとき』の特典冊子にあるパディ・キッチンへの手紙にも見られるので読んでみてほしい。

 

「この世界には、善人と悪人の両方がいる。どちらも自分の信念に従って生きている。この国は、悪に対してとても寛容だ。それは死があるからだ。誰もが最後に死を迎える。我々は好まなくとも、死ゆえに悪を許すのだ」

ディノレゴのセリフ。

■英国人農業専門家の青年ギルバートとの出会い


「君のことをもう少し聞かせてくれよ。南アフリカではどんな仕事をしていたんだい?」
「あんまり話すこともないよ」マカヤは言った。「ヨハネスブルグで新聞社に勤めていた。新聞っていうのは、黒人が一面で自分らの顔を見ることができて隣近所のことを知れる唯一の手段だけど、ぞっとするものだよ。でも取材に行くとそういう記事は真実からそんなに遠くないことがわかる。あばら家で暮らしている人たちは、ひどい暮らしだ。ひとが立ち上がろうとする生存の法則があっても、押しとどめようとする人為的な法則がある。それだけなんだ。

ホレマ・ミディ村で三年前から農業開発に燃える英国人青年ギルバート。彼とマカヤの最初の会話。南アフリカについて深いところは語らない。


「じゃあ、ここでは皆ミレットを育てているのですね」とギルバートは当局に尋ねた。
「いいえ」と彼らは答えた。「依然としてソルガムとメイズを育てていますよ」(中略)伝統的に劣ると考えられている少数部族が古くからミレットを好み、いつも季節の農作物として育てていたからだ。そのため、自分たちが優れていると考える他の部族は、ミレットを育てることも食べることもなかった。
ギルバートがボツワナに存在する差別を知り、唖然とするシーン。アパルトヘイトでなくても差別や偏見はある。

■ボツワナの夕暮れ、夜明け


夜明けと同じように、太陽は金色の軸を描いて地面を這う。太陽が落ちるとき、まるで光り輝く長い指先を折りたたむかのように静かに消えていく。彼が魅了されながら見ていると、真っ黒な夜の影が大地を飲み込む波のように忍び寄ってくる。太陽がそこにあったかと思うと、次の瞬間には平らな地平線の向こう側に落ちて辺りは闇に沈み込む。凍てつくような寒い夜には、水晶の輝きに満ちた半透明の黄色
い残光を放つけれど、そうでなければ、地表に細く延びる赤い光の帯となってふっと消えてしまう。

 七月はまるで深い青い海の底で暮らしているかのようだった。本当に、冬が地球に透き通った青い光の膜を張ったようだからだ。ボツワナでは、雲一つない砂漠の空がいつも広がっているが、七月の太陽の光は濃厚な青い布の層を通して降り注ぎ、この層から浸透した光は、すべてを艶やかで柔らかな輝きで包み込んでいた。神秘的な青い霧は、低く立ち込める雲のように一日中地平線にかかり、夕方になると冷たい風となって曲がりくねった小道を吹き抜けていく。
■あらゆるイデオロギーが支配者の抑圧に変わってしまう


 彼が逃げ出そうとしているのは、南アフリカだけでなくそれ以上の何かで、それは、彼が感じているアフリカ大陸全体を停滞させているあらゆる要因が含まれていた。一方では迫害される側だと感じているのに、もう一方では、憎悪を生み出すあらゆる政治イデオロギーの餌食に簡単になってしまう。それがこの時代の秩序のように思えた。しかし、これらの憎悪を生み出すイデオロギーは、新たに思想と誇りの退化を生み出すもので、世界中が自分に敵対していると考えるのはほとんど狂気の沙汰だった。そして、この流行に乗らない偉そうで威圧的な愚か者たちなどいるだろうか? それでもまた、現実の悲惨さはそこにあった。どんなに愚かな真似をしても、南部アフリカの人々への抑圧はまだ続いている。

 ある段階で、自分のジレンマを打開するために彼は独力で進むことを決意した。苦しみを抱えた大勢の人々を見てきたし自分もその一部だが、一方で自分を一つの独立した分子だとも見ていた。そして時が経つにつれ、彼は自らの孤立を強調し始め、それをあらゆる混乱の中で思考を明晰にする指針とした。これは稀なことだった。誰もが自分の後生大事な偏見と伝統にしがみつきがちである世界のこの場所では、険しい道のりだった。(中略)こうしてギルバートに出会ったとき、マカヤは沈みゆく者だったし、この事実と科学的考察の世界の思索の方が、はるかに扱いやすいものに見えた。だからこそマカヤは、農業に救いを求め、ギルバートにも頼ることになった。それは、自分の直感に対する罪悪感と恐怖からだった。何故これほど多くの人々が少数の者に迫害されるのか、何故少数が食べきれないほどの富を持ちながら、あまりに多くが飢えるのかについて、その現実的な解決策が、彼の直感には欠けているように感じられたからだ。
マカヤが生きてきた政治的で血の流される地獄だったアパルトヘイトの世界と、実務的なギルバートの世界は対照的だった。農業は、マカヤが心を開こうとするきっかけになったが、これで彼の問題が解決されたわけではない。マカヤはこんな思考を逡巡させながら、人生に自分なりの結論を出そうとする。


 だが、何故だ? 何故撃ち殺されることを選ばない? 何故、屈辱を受けた生き地獄に甘んじて生きるより、撃ち殺されることを望まないのか。

■女性たちが劣っているふりをしている限り


ポリーナ・セベソは独身だったが彼女たちにはいずれも決まった恋人か夫がいて、ポリーナに関しては伝説まで出来上がっていた。彼女は高飛車過ぎると言う男性たちもいた。すると皆、本当は女が怖くて萎れた軟弱な名ばかりの男たちに過ぎないのに、同じことを言うようになった。女たちが皆、このいくじのない男どもに劣っているふりをしている限り、物事は順調に進んでいく。女たちは長いあいだ、性差の欲求不満の中で自分たちに噓をついてきた。ポリーナが皆を仕切る本当の理由は、彼女が男たちに噓をつけない女だからだと認めたくなかったのだ。彼女らがポリーナの指導力に従っているのは、彼女があまりに大胆で人と違うからだ。もし、ポリーナが一緒にやっていける男を見つけてしまったら、自分たちの世界が揺らいでしまう。だから、自分たちよりもはるかに大きな欲求不満に、彼女を閉じ込めておこうとしていた。

独立心の強い村の若い女性ポリーナと、女性たちとのシーン。女性の立場をとても的確に表している。


 女が背骨で自分を支えて生きねばならないのは、何かひどく間違っている。女にはどちらを向いても、孤独という罠があるのだから。(中略)少女が突然涙を溢れさせて大泣きし始め、彼女は驚いた。ポリーナも泣きたい気持ちがないはずがなかった。二人とも、孤独という同じ病に苦しめられていた。でも、大人の女が泣いてしまったら、その熱い涙は背骨となっている鉄の棒を溶かしてしまう。そうすれば、どうしてあくる朝目覚めて次の一日に向き合うことができよう?
■マカヤのキリスト教への強い反発


「信仰とは何なのでしょう、お母さん」興味ありげにマカヤは尋ねた。「人生を理解するということよ」彼女は優しく言った。
 しばらく彼女を見ていたマカヤは、黒い肌の長い片腕をテーブルに置き、その肌と同じ真っ黒なセーターの袖を捲り上げた。
「つまり、これもそうなのですか」彼は静かに尋ねた。「僕が誰だかわかりますか? マカヤです、ブラック・ドッグの。そうやって僕は人生に翻弄されている。人生は自分にとって拷問と苦悩でしかないし、理解しようとは思いません」
 それは、拷問や苦悩をはるかに超えるもので、底知れぬ裏切りであり、荒涼たる地獄であったかもしれない。あらゆる愛と尊敬の仕草は、この地獄の住人たちの凶暴な嚙み付く顎で報いられる。自分自身と嚙み付く顎のあいだに厚い沈黙の壁を築くことを余儀なくされるまで。しかし彼は、この壁の後ろで自ら息を詰まらせ死んでしまうだろう。何故なら、愛とは本来、せき止めることのできない温かく流れる川だからだ。
村の敬虔なクリスチャンの老女マ・ミリピードとマカヤの非常に重要な対話シーン。マカヤは穏やかな農村での生活を始めようとしていたのに、心の闇をよみがえらせてしまう。しかし、そこにはマ・ミリピードがいる。結論は出ない。それでも、この対話が重要な意味を持っていく。


 善人であろうと悪人であろうと、誰もが人生の前では無力なのですよ。

■ユートピアとは/雨


何千人もの人々が、まるで木々のように、アフリカの淋しい荒野でこうして自分自身との対話まで断たれて生きている。もし人間が木になってしまえば、人生が停滞しても何の不思議があろうか? だからこそ彼、マカヤは平和を求めてこんなに遠くまで逃げてきたけれど、人間がもっとも必要としているのは、他の生命との関わりあいだ。もしかすると、ユートピアもただの木々なのかもしれない。もしかすると。

「大地に川は見えないかもしれないけれど、わたしたちは心の中に川を抱いている。だから、すべての良いものやすべての良い人を雨と呼ぶのです。



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こちらの動画で朗読しながら詳しく語っています。ぜひご覧ください。




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