南アフリカのラマポーザ大統領が、ワシントンのOval Officeで行ったトランプ大統領との会談は、多くの意味で歴史的な出来事だった。
トランプ大統領が、「南アフリカではアフリカーナー(オランダ系白人)農場主の<虐殺>が起きている。彼らは、人種差別の被害者である」との主張に基づき、本当に南アフリカから49人(メディアソースによっては59人とされている)の白人農場主と家族を難民として迎え入れたニュースから二週間ほど。
南アフリカ政府は、白人の虐殺という事実はないこと、また難民とは政治的・宗教的・社会的迫害を受けて国に住み続けられなくなった人を指すのであり、アフリカーナーはこれに該当しないことなどを訴えて、それに続くタイミングでの会談だ。
トランプ大統領は、予想通り南アフリカでの白人への「虐殺」の証拠とされるものを次々と提示し、ラマポーザ大統領は終始穏やかな様子で受け答えしていた。
南アフリカの独立系メディアDaily Maverickが"He didn’t get Zelenskyed. That's what we have to hang onto (He) did not get personally insulted by the world’s most horrible duo of playground bullies,"(彼はゼレンスキーのような目に遭わずに済んだ。それだけが救いだ。世界最悪のいじめっ子コンビから個人攻撃を受けることはなかった。)と書いたように、ラマポーザ大統領の方が明らかに上手(うわて)だったようだ。
(ところで「ゼレンスキー」を動詞化するとは、座布団をあげたくなるくらいぴりりと皮肉の利いた表現だ)
トランプ大統領が、白人農家の虐殺の証拠として次々と出してくるニュースは、コンゴ民のものなどまったく論拠にならないものだったようだ。さらには、これが極めつけの証拠だと言わんばかりに、「Shoot the Boer!(ボーア人を撃て!)」と扇動する人物の動画を流す。
このとき、ラマポーザ大統領が少しあきれるように笑った。これも論拠にはならないからだ。あまりに予想通りの展開だったから少し笑ってしまったのかなとも感じられたくらい余裕のある態度だ。
動画は、物議を醸し続けてきたジュリウス・マレマ氏。白人の排除を推進するような急進的で攻撃的な扇動を行った人物であり、ANC(アフリカ民族主義)から離脱している。これは一部の極端な例に過ぎない。南アフリカ全土で行われていることではまったくない。
落ち着いた様子を崩さないラマポーザ大統領の姿勢は、ゆっくりと威厳を持って、決して頭からの否定をすることなく相手の立場を最大限尊重しながらも、持論をシンプルかつ確実に展開する、アフリカの国々でよく見られる政治家の手腕だと感じた。説得力がある。
次々と提示されるとんでもない「証拠」に対し、これは政府の意向ではないと丁寧に諭すように語る。
南アフリカにおける暴力犯罪で殺害されている被害者の中に白人は確かにいるが、大多数は黒人だ。
わかりやすい言葉で語ったうえで、ネルソン・マンデラ氏の言葉を引きながら、対話と共存への道を提案した。

(Reutersより)
「白人が人種差別や虐殺の犠牲者」という根拠に欠ける主張はまさにアメリカに吹き荒れるバックラッシュを象徴する言説であり、このことが過去の長いアパルトヘイト闘争の歴史までをも否定することに深い憤りを感じる。
人種主義によって夥しい数の血が流されてきたからこそ、南アフリカが選ぼうとしてきた対話と共存の道であるのに、その意義や重要性までも否定してしまうとは。
1960年代、激しいアパルトヘイト闘争で多くの人間が命を奪われ、人生を奪われていた時代。
南アフリカで白人と黒人のあいだに生を享けた作家ベッシー・ヘッドが亡命先のボツワナで描いたものは、アパルトヘイト構造そのものを超越した人間の内面に根差した差別のことだった。その圧倒的に力強い言葉は、もう差別主義者を産まないという強い意志と目的を持って確実に意図的に綴られていったものだ。
1968年『雨雲の集まるとき』の主人公である青年マカヤは、反アパルトヘイト活動家で投獄されたジャーナリストだ。その心の闇はあまりに深く、ボツワナ農村という南アフリカとまるで違う世界で、平和に穏やかになっていくものの、実は問題の核は物語であえて解決されていない。
ベッシー・ヘッドは未来への道筋を示すが、それは託されているのだ。


「あやセンターぐるぐる」にてお話をします。ぜひ遊びにいらしてください。お申し込みはこちら。
Book Talk oasis vol.3 横山仁美 〜アフリカと関わり、問いをひらく〜ベッシー・ヘッド『雨雲の集まるとき』(雨雲出版)刊行記念
エッセイ100本プロジェクト(2023年9月start)
【53/100本】
南アフリカの作家ベッシー・ヘッド(1937-1986)の紹介をライフワークとしています。
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■作家ベッシー・ヘッドについてnoteで発信しています。
⇒ note「ベッシー・ヘッドとアフリカと」
⇒ note「雨雲のタイプライター|ベッシー・ヘッドの言葉たち」
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■音声配信『雨雲ラジオ』
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トランプ大統領が、「南アフリカではアフリカーナー(オランダ系白人)農場主の<虐殺>が起きている。彼らは、人種差別の被害者である」との主張に基づき、本当に南アフリカから49人(メディアソースによっては59人とされている)の白人農場主と家族を難民として迎え入れたニュースから二週間ほど。
南アフリカ政府は、白人の虐殺という事実はないこと、また難民とは政治的・宗教的・社会的迫害を受けて国に住み続けられなくなった人を指すのであり、アフリカーナーはこれに該当しないことなどを訴えて、それに続くタイミングでの会談だ。
トランプ大統領は、予想通り南アフリカでの白人への「虐殺」の証拠とされるものを次々と提示し、ラマポーザ大統領は終始穏やかな様子で受け答えしていた。
南アフリカの独立系メディアDaily Maverickが"He didn’t get Zelenskyed. That's what we have to hang onto (He) did not get personally insulted by the world’s most horrible duo of playground bullies,"(彼はゼレンスキーのような目に遭わずに済んだ。それだけが救いだ。世界最悪のいじめっ子コンビから個人攻撃を受けることはなかった。)と書いたように、ラマポーザ大統領の方が明らかに上手(うわて)だったようだ。
(ところで「ゼレンスキー」を動詞化するとは、座布団をあげたくなるくらいぴりりと皮肉の利いた表現だ)
トランプ大統領が、白人農家の虐殺の証拠として次々と出してくるニュースは、コンゴ民のものなどまったく論拠にならないものだったようだ。さらには、これが極めつけの証拠だと言わんばかりに、「Shoot the Boer!(ボーア人を撃て!)」と扇動する人物の動画を流す。
このとき、ラマポーザ大統領が少しあきれるように笑った。これも論拠にはならないからだ。あまりに予想通りの展開だったから少し笑ってしまったのかなとも感じられたくらい余裕のある態度だ。
動画は、物議を醸し続けてきたジュリウス・マレマ氏。白人の排除を推進するような急進的で攻撃的な扇動を行った人物であり、ANC(アフリカ民族主義)から離脱している。これは一部の極端な例に過ぎない。南アフリカ全土で行われていることではまったくない。
落ち着いた様子を崩さないラマポーザ大統領の姿勢は、ゆっくりと威厳を持って、決して頭からの否定をすることなく相手の立場を最大限尊重しながらも、持論をシンプルかつ確実に展開する、アフリカの国々でよく見られる政治家の手腕だと感じた。説得力がある。
次々と提示されるとんでもない「証拠」に対し、これは政府の意向ではないと丁寧に諭すように語る。
南アフリカにおける暴力犯罪で殺害されている被害者の中に白人は確かにいるが、大多数は黒人だ。
わかりやすい言葉で語ったうえで、ネルソン・マンデラ氏の言葉を引きながら、対話と共存への道を提案した。

(Reutersより)
「白人が人種差別や虐殺の犠牲者」という根拠に欠ける主張はまさにアメリカに吹き荒れるバックラッシュを象徴する言説であり、このことが過去の長いアパルトヘイト闘争の歴史までをも否定することに深い憤りを感じる。
人種主義によって夥しい数の血が流されてきたからこそ、南アフリカが選ぼうとしてきた対話と共存の道であるのに、その意義や重要性までも否定してしまうとは。
1960年代、激しいアパルトヘイト闘争で多くの人間が命を奪われ、人生を奪われていた時代。
南アフリカで白人と黒人のあいだに生を享けた作家ベッシー・ヘッドが亡命先のボツワナで描いたものは、アパルトヘイト構造そのものを超越した人間の内面に根差した差別のことだった。その圧倒的に力強い言葉は、もう差別主義者を産まないという強い意志と目的を持って確実に意図的に綴られていったものだ。
1968年『雨雲の集まるとき』の主人公である青年マカヤは、反アパルトヘイト活動家で投獄されたジャーナリストだ。その心の闇はあまりに深く、ボツワナ農村という南アフリカとまるで違う世界で、平和に穏やかになっていくものの、実は問題の核は物語であえて解決されていない。
ベッシー・ヘッドは未来への道筋を示すが、それは託されているのだ。
深く傷つきながら南アフリカで生き延び、ボツワナという新天地を目指した青年マカヤは、まさに南アフリカでジャーナリストだったベッシー・ヘッドそのものだ。血の流される解放闘争ではなく、根源的な悪と善に対峙する生き方を提示した。それが『雨雲の集まるとき』だ。
その作品は、人種主義者にバックラッシュの余地を与えないために、解放闘争よりも社会に再生産される差別そのものへの警鐘でもある。そのために、ベッシー・ヘッドというとんでもなく優れた作家は、あえて構造的な政党政治そのものではなく、それを生み出す社会であり人間の深い心の中を鋭く描き出し問いかける。
アパルトヘイト闘争真っただ中の時代に、あえてボツワナ農村を舞台としながらも、その実は人類全体への大きな課題を提示する。多くのひとが、アパルトヘイト政権に対抗して声を上げていく中で、それを大きく超越した根源的なものを見据えて作品を描くというのは、並大抵の能力ではない。
時代を超越した、根源的な人間性を捉えていた。そのような重要な物語が、人類に向けて発せられた。それがベッシー・ヘッドというひとの仕事だ。
それなのに、60年近くも経った今のバックラッシュとは何なのか。
アパルトヘイトが終焉を迎えて30年以上。今でもベッシー・ヘッドの提示した問いがそこにある。
アパルトヘイト闘争真っただ中の時代に、あえてボツワナ農村を舞台としながらも、その実は人類全体への大きな課題を提示する。多くのひとが、アパルトヘイト政権に対抗して声を上げていく中で、それを大きく超越した根源的なものを見据えて作品を描くというのは、並大抵の能力ではない。
時代を超越した、根源的な人間性を捉えていた。そのような重要な物語が、人類に向けて発せられた。それがベッシー・ヘッドというひとの仕事だ。
それなのに、60年近くも経った今のバックラッシュとは何なのか。
アパルトヘイトが終焉を迎えて30年以上。今でもベッシー・ヘッドの提示した問いがそこにある。
そして、奇しくもこのようなタイミングに、わたしは雨雲出版を立ち上げ『雨雲の集まるとき』という重要な作品を、日本語読者に向けて世に送り出した。
このことは、「わたしの長年の夢」のように表現できるごく個人的で小さなことではなく、この世界に対する使命であり自分の人生に課せられた重大な仕事だと捉えている。
ベッシー・ヘッドという人が投げかけた魂とその問いに、我々人類はどう答えるのか。
この国の多くのひとに、どうか、どうか届いてほしい。
このことは、「わたしの長年の夢」のように表現できるごく個人的で小さなことではなく、この世界に対する使命であり自分の人生に課せられた重大な仕事だと捉えている。
ベッシー・ヘッドという人が投げかけた魂とその問いに、我々人類はどう答えるのか。
この国の多くのひとに、どうか、どうか届いてほしい。

人生をかけてきた大切な作品です。
Amazonや楽天など大手ネットワークでも買えますが、雨雲出版から直接ご購入いただくと特典冊子を差し上げますので、ぜひこの作品を心のそばに置いていただきたいです。

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Book Talk oasis vol.3 横山仁美 〜アフリカと関わり、問いをひらく〜ベッシー・ヘッド『雨雲の集まるとき』(雨雲出版)刊行記念
◎イベント概要
【開催日】2025年5月27日(火)
【時 間】19:00ー21:00
【参加費】500円+1Drink Order※当日oasisレジにてお好きなドリンクをご注文ください
【定 員】15名
【申し込み】Peatixから
【場 所】あやセンター ぐるぐる(千代田線「綾瀬」駅徒歩3分)
エッセイ100本プロジェクト(2023年9月start)
【53/100本】
南アフリカの作家ベッシー・ヘッド(1937-1986)の紹介をライフワークとしています。
(詳しくはこちら)
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■作家ベッシー・ヘッドについてnoteで発信しています。
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