映画『君たちはどう生きるか』に関するあくまでも個人的な感想をメモ。
京都に三日ほどいるあいだ暑さ逃れのために映画館に入ったのだが、大変なものを観てしまったと思う。

宮崎駿監督だからこそ作り上げることができる圧倒的な作品世界だと感じた。

現実世界であっても、過去の記憶やどこかの世界がちらりと顔を出して滲んでいくような危うい感覚に襲われる。
その境界線の脆さがそここに染み込んでいる。しかも、余分な語りや物語性はない。

何よりも特徴的なのは、強烈なインパクトを伴うキャッチーなモチーフを用意していない点だ。
つまりラピュタやトトロ、紅の豚といったような、パッと見てわかるようなモチーフをあえて外しているように思える。

ジブリがこれまで取り組んできた視聴者エンタメサービスの一部としての「くっきりしたモチーフ」を排除し、あえてコンセプトだけをジブリの特徴的な作品世界に盛り込んだ。

それは、これまで40年近くに及ぶ膨大な蓄積があったからこそできることだと思う。

ジブリが取り扱ってきたメッセージ、そして確立されたキャラクターたち。
それらが、「説明しなくてもわかっているでしょう」という感じであふれ出し、何か目を引くキャッチーでわかりやすいものをあえて出さない。
だからこそ強いエネルギーを生む。

これはジブリ、宮崎駿監督にしかできない。

めちゃくちゃかっこいい。



この作品世界に身体と魂を取り込まれながら、絵の具が滲む水彩画のような、色が主張しながら混ざり合うアクリル画のようなイメージを抱いた。
水の中を泳いでいるみたいだ。


寝覚めの悪い悪夢のように、体内に蓄積された記憶がねっとりと内部から身体に染み込んでくる感触と危うさは、実にパーソナルなものだと思う。

自分自身の記憶と重なり溶け合うような感覚に溺れる不思議な時間は、そのひとだけの実に個人的なものだからこそ、エンターテインメントとして語ることは非常に難しいのではないだろうか。

なので、大切なメッセージの部分はあえて解釈などしない方が良いと強く思った。

わたしの内面に染み込んだものを壊したくない。


自分で書いていて何だが、誰かがこの作品について書いた解釈は何となく見たくない気がする。
共有できるものではないような。


だからこそ賛否両論分かれるのは当然だ。

この作品に最初からアニメーション的なエンターテインメント的要素を求めれば、物足りないかもしれない。何せ個人の心の中に直接訴えかけるパーソナルなパンチの塊のような存在だからだ。

パンチはあるけれど水のように溶けて滲み染み込むような。
つかもうとしても指の間に感触だけ残してすり抜けていくような。


あくまでもわたし個人の捉え方だけれど、この作品は受け取る側のパーソナルなものになるので、あまり客観性を求めても難しい。

そしてもっと言えば、現実の宮崎駿氏と結びつけない方がいい気がする。それは、あくまでも「鑑賞したひとから見た宮崎駿氏」であるにすぎないからだ。


だから、足掻くことなく、おとなしく作品世界の水の中をうなされたように揺蕩っていればいいのではないかしら。

そんなことを考えた。




南アフリカの作家ベッシー・ヘッド(1937-1986)の紹介をライフワークとしています。
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