アフリカを旅したり、アフリカ界隈の仕事したりするひとはおそらく百万回は耳にしたことがあるだろう「アフリカの水を飲んだものはアフリカに帰る」という有名すぎることわざがある。

今でこそアフリカに関わって二回りは時が経ち、この言葉は飽きるくらい聞いたが、大学生当時のわたしにとってはフレッシュな言葉だった。でも、この言葉が自分のものとして心に届くまでは少し時間がかかったように思う。

大学生のとき、アフリカ研究のゼミを取ったのは偶然だった。
アフリカのことなどまるで知らなかったが、シラバスにたったひとこと書かれていた「アフリカに関することならテーマ自由」という文章が、わたしにとって何よりの決め手となった。

そのゼミは校外実習もない、ダントツに地味な不人気ゼミだった。


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大学に通っていても、どこかに所属して仕事をしていても、わたしはいつもずっと違うところを見てきたように思う。

アフリカ研究のゼミに入ったあとも、実は別の関心事の方に熱意を注いでいた。
アフリカへのスイッチが入っていなかったのだ。

でも、変化は思わぬところでやってくる。
作家ベッシー・ヘッドに偶然出会うきっかけを作ったのは、もとはと言えばゼミの勉強とは直接関係ない福祉施設の見学にわざわざ長崎まで行ったときに偶然立ち寄った古本屋だった。

そして、ベッシー・ヘッドの作品と魂に魅了されていくことになる。

数か月後、またゼミとは関係ない別の用事で国内線に乗っていたときだった。
機内誌が好きでいつも楽しみにしているのだが、そのときの機内誌に大きくキング・プロテアの花が見開きで印刷されていたのだ。

その迫力ある美しさ、力強さ。
瞬間、魅入ってしまった。
あ、わたしはアフリカに行く、と思った。

そして、ゼミに戻った途端、先生に宣言したのだ。
「わたし!アフリカに行く!!」

キング・プロテアは、南アフリカの国花だった。

そして不思議なことに、このときもう「わたしは何度でもアフリカに帰る」と確信していた。
まだ一度も行ったことがなかったのに。

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時は1998年、パソコンは持っていないし、かろうじて大学のパソコンルームを使ってメールをやり取りした時代。

いまのように、世界中の情報が手に入り、ホテルや航空券が予約できるなんていう便利なサービスはまだ普及していないころだ。

行き先はもちろん、南アフリカとボツワナだ。
南アフリカはベッシー・ヘッドが生まれ26歳でボツワナへ亡命するまで波乱万丈の人生を過ごし、ボツワナは亡命後22年間を過ごしたところ。

ボツワナのセロウェにあるカーマ3世メモリアルミュージアムには、ベッシー・ヘッドの資料が保管され研究者が閲覧できるようになっている。

コネクションも何もない中で、わたしは大学の資料室に行き、世界各国の研究機関や大学等の連絡先が記された分厚いDirectoryを引っ張り出し、片っ端から南アフリカとボツワナで何かのヒントになりそうな機関を探し出してリストアップした。

文学研究ネットワークみたいなもの、博物館、大学の研究機関。
そこに何通もエアメールを書き送った。(時代だね)

結果、マカンダ(旧グラハムズタウン)にあるAmazwi South African Museum of Literature(旧National English Literary Muesum)から大量のベッシー・ヘッド関連の論文や資料が突然請求書とともに送られてきた。
それが、わたしのベッシー・ヘッド研究の道を広げることになった。


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ほとんど情報はなかったけれど、それ以外に手探り状態で試したことがいくつかあった。
当時日本のある雑誌のサービスで、世界の各都市の雑誌などに「文通相手募集」の広告を出せるというのがあった。(文通って時代ね)

さすがにボツワナはなかったが、南アフリカのヨハネスブルグ、ケープタウン、そしてダーバンに広告を出した。いずれもベッシー・ヘッドにゆかりのある街だからだ。

そして、結果は…
55通(だったかな)に及ぶ南アフリカからの返信があった。
そのほとんどは、21歳の日本の女子大生に下心がありありの気持ち悪い内容だったけれど、中にはまともそうな手紙も何通かあった。

そして、実際わたしは、初めての南アフリカに行って多くの知らないひとに助けてもらうこととなる。

ヨハネスブルグでは、Directoryを見てヴィッツ大学に送った手紙が有名な英文学の先生に届いたらしく、その先生が紹介してくれた文学研究のアメリカ人phD学生のアパートに泊めてもらった。
ベッシー・ヘッドも含めたアフリカ文学の研究者だ。

ダーバンでは、手紙で知り合ったひとのアパートにお世話になり、ベッシー・ヘッドが生まれたピーターマリッツブルグや、彼女が暮らした「孤児院」のセント・モニカ、彼女が教えた高校などを訪問することができた。

ケープタウンでも、手紙で知り合った家族のお宅にお世話になった。

念のため言っておくけれど、まったく知らないひとの家に泊まるこの強引なやり方は、お勧めできるものではない。
当時はとても若くて熱意だけは人一倍あったからできたことだと思う。
そして、たまたまわたしは危ない目に合うことなく安全に過ごすことができたというだけだ。

今なら、やらない。

もっとも、今はAir B&Bもあるし、ネットでホテルやゲストハウス、航空券の予約も何でもできてしまう。地図もあるし。せっせと手探りでエアメールを書く必要は、ない。

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そして、もうひとつ大切な出会いがあった。

ボツワナについてはほとんど情報がない中で(今みたいなネット情報はない)、旅行ガイドもないし、途方に暮れつつあったなか、未練がましく本屋ですでに何度か見た南部アフリカ(ほぼ南ア)のガイドブックを開いたのだ。

すると、たった数ページしかないボツワナのページに、今までなかった新しい情報がとても小さく書かれていた。
「在京ボツワナ大使館が、1998年に開設」

まさに、その年オープンしたばかりだったのだ。

そしてアフリカ知識もあまりない大学生のわたしは、新しい在京ボツワナ大使館にわけのわからない(何を質問していいのかもわからないレベル)電話をかけるのであった。

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続きは、また。

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なお、このあたりの話はKindleでも書いています。





南アフリカの作家ベッシー・ヘッド(1937-1986)の紹介をライフワークとしています。
(詳しくはこちら)

■作品の翻訳出版に向けて奔走しています。
■作家ベッシー・ヘッドについてnoteで発信しています。
note「ベッシー・ヘッドとアフリカと」
note「雨雲のタイプライター|ベッシー・ヘッドの言葉たち」

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■ Amelia Oriental Dance (Facebookpage)
■ 『心と身体を温めるリラックス・ベリーダンス』
■ Rupurara Moonアフリカンビーズ&クラフト
 Rupurara Moon African Beads & Crafts
 



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