作家ベッシー・ヘッドの資料の中には、彼女のインタビュー音源もいくつか残されている。
ベッシーの声は、かなり柔らかく優しく高いトーンで、しかも非常に可愛らしい喋り方なのだけれど、ときどき強い感情が見え隠れしてオーラが感じられる。
(いつか公開するかもしれないけど、案外ベッシー関連の権利はわりと厳しいので、いずれきちんとした形にするね)
カセットテープを再生できる機器はもうずいぶん前に手放してしまったので、既存のテープ音源をデータ化するツールを買ってはいたのだけれど、ずいぶん長いこと抽斗の中に放ってあった。
今日4月17日はベッシー・アメリア・ヘッドの命日だ。
それもあって、夕べ古いカセットテープを引っ張り出してきた。
1998年大学生のときのものだから、もう23年にもなるけれど、幸い伸びているなんてこともなく音の劣化もしていないようだった。
さっそく再生すると…

ん?
このかわいらしい声、ベッシー・ヘッドだよねぇ?
ってしばらく本気で思ってたんだけど…
え?
ちょっ、My name is Hitomiって言ったwww
そうです。
21歳の自分でした


↑自分の声をベッシーの声と間違えました(*゚▽゚*)

1998年大学4年生のころ。
セロウェ村のミュージアムで資料を毎日見てたんだけれど、そこにしょっちゅう油を売りに来るのがベッシー・ヘッドの一人息子ハワード・ヘッドだった。
彼が登場したときは驚いた。
もちろんベッシーにそっくりだという話は知ってはいたんだけれど、実際に目の前にいるとベッシーの存在感みたいなものを強く感じて、びっくりして声が出なかった。
本当に似てる…
大学生だった私は、このときの卒業論文の調査がもちろん初めての調査活動だったし、インタビューなんてしたことなかった。
けれど、こんな貴重な機会を逃すものか!と自分の中の強く突き動かす思いがあり、ハワードに突撃インタビューをお願いした。
ありがたいことに、親切なハワードはわたしの下手なインタビューにちゃんと付き合ってくれたのだ。
でも、何を訊いていいかもわからず、急だったから質問も想定していなくて、なんだかわけのわからない時間になってしまったけれど。
それでも、このときのことはとても思い出に残っている。
ハワードにしてみれば、今でもベッシー・ヘッド研究者が世界中からやってくるのは面白いし、まだ母親がそばにいるように感じられるという。
そんな印象的な言葉が引き出せただけでも、このインタビューは良かったかな。
いい加減な性格で非常に気まぐれなことで有名なハワードは、会う約束を三日連続ですっぽかしてくれたけど。
結局、自分の車でベッシーの家(当時ハワードはそのまま住んでいた)とお墓と、いつも吞んでいるバーに連れて行ってくれたのは本当に貴重な思い出だ。
ミュージアムのひとによると、そこまでハワードが研究者に親切にしてくれるのはめったになかったらしい。21歳の頼りない大学生だったのが、かえって良かったのかな。
ハワードを通してベッシーの存在を感じるような気がした。
ということで!世界初公開(笑)


ハワード・ヘッドへのインタビューです。
↓こちらが、1998年のその時の写真。
ベッシー・ヘッドの家の前です。途中で買ったファンタオレンジをあふれんばかりになみなみとマグカップに注いでくれました。ていうかこぼれてます。ハワードらしい気がした。

↓セロウェにあるベッシー・ヘッドのお墓です。

そんなハワードも、2007年ベッシー・ヘッド・フェストのときは大勢の参加者の中からわたしを見つけてくれて、「ヒトミ!」と呼んでくれた。覚えていてくれて本当にうれしかった。
そして彼は、そのすぐあと2010年に母親ベッシーと同じ年齢48歳で亡くなってしまった。
人生ってほんとうに何があるかわからない。
今という時間がどれだけ貴重かと思う。
だから、準備できていなくても下手でも、インタビューをして心からよかったと思う。
ありがとうハワード・ヘッド(´;ω;`)
そんなわたしも、あれから20年以上の時が経ち、ベッシー・ヘッドが亡くなった48歳という年齢にもあと数年となった。
まだベッシー・ヘッド活動を続け、昔よりもさらに精力的にベッシー・ヘッド・ヘリテージ・トラストとも仕事するようになって、いちおうずいぶん進歩はしたかな。
すべての出来事に、感謝したいと思う。
おまけ。
↓こちらは、わたしがアフリカ人生を始めるきっかけとなった大学のときのゼミ。
ちょうど、ボツワナに行く前の写真だと思う。
左端のおかっぱボブにヤギひげの方が、わたしの恩師です。
右端はわたしにとって思い出深いゼミの同期です。
もう会うこともありませんが、今では大学で教鞭をとっているらしいのをSNSでちらりと見かけます。
元気でいてくれるならそれでいいですね。
この中の誰とももう会うことはないでしょうけれど、大学時代には色んな思い出があります

あれから何年も経ち。
わたしは今でも毎日、作家ベッシー・アメリア・ヘッドと向き合い、彼女の声に耳を澄ませています。
世界のひとりひとりの個人の心の中に、宝物を届けたいと思っています。

photo by Yohta Kataoka


こちらは、今でも世界中で愛されているベッシー・ヘッドに関するムーブメントについて、あまり日本語では発信されていないと思うので書いてみました。読んでいただけたらうれしい

南アフリカの作家ベッシー・ヘッド(1937-1986)の紹介をライフワークとしています。
(詳しくはこちら)
■作品の翻訳出版に向けて奔走しています。
■作家ベッシー・ヘッドについてnoteで発信しています。
⇒ note「ベッシー・ヘッドとアフリカと」
⇒ note「雨雲のタイプライター|ベッシー・ヘッドの言葉たち」
==
■ Amelia Oriental Dance (Facebookpage)
■ 『心と身体を温めるリラックス・ベリーダンス』
■ Rupurara Moonアフリカンビーズ&クラフト



↓更新通知が届きます

ベッシーの声は、かなり柔らかく優しく高いトーンで、しかも非常に可愛らしい喋り方なのだけれど、ときどき強い感情が見え隠れしてオーラが感じられる。
(いつか公開するかもしれないけど、案外ベッシー関連の権利はわりと厳しいので、いずれきちんとした形にするね)
カセットテープを再生できる機器はもうずいぶん前に手放してしまったので、既存のテープ音源をデータ化するツールを買ってはいたのだけれど、ずいぶん長いこと抽斗の中に放ってあった。
今日4月17日はベッシー・アメリア・ヘッドの命日だ。
それもあって、夕べ古いカセットテープを引っ張り出してきた。
1998年大学生のときのものだから、もう23年にもなるけれど、幸い伸びているなんてこともなく音の劣化もしていないようだった。
さっそく再生すると…

ん?
このかわいらしい声、ベッシー・ヘッドだよねぇ?

ってしばらく本気で思ってたんだけど…
え?
ちょっ、My name is Hitomiって言ったwww
そうです。
21歳の自分でした



↑自分の声をベッシーの声と間違えました(*゚▽゚*)

1998年大学4年生のころ。
セロウェ村のミュージアムで資料を毎日見てたんだけれど、そこにしょっちゅう油を売りに来るのがベッシー・ヘッドの一人息子ハワード・ヘッドだった。
彼が登場したときは驚いた。
もちろんベッシーにそっくりだという話は知ってはいたんだけれど、実際に目の前にいるとベッシーの存在感みたいなものを強く感じて、びっくりして声が出なかった。
本当に似てる…
大学生だった私は、このときの卒業論文の調査がもちろん初めての調査活動だったし、インタビューなんてしたことなかった。
けれど、こんな貴重な機会を逃すものか!と自分の中の強く突き動かす思いがあり、ハワードに突撃インタビューをお願いした。
ありがたいことに、親切なハワードはわたしの下手なインタビューにちゃんと付き合ってくれたのだ。
でも、何を訊いていいかもわからず、急だったから質問も想定していなくて、なんだかわけのわからない時間になってしまったけれど。
それでも、このときのことはとても思い出に残っている。
ハワードにしてみれば、今でもベッシー・ヘッド研究者が世界中からやってくるのは面白いし、まだ母親がそばにいるように感じられるという。
そんな印象的な言葉が引き出せただけでも、このインタビューは良かったかな。
いい加減な性格で非常に気まぐれなことで有名なハワードは、会う約束を三日連続ですっぽかしてくれたけど。
結局、自分の車でベッシーの家(当時ハワードはそのまま住んでいた)とお墓と、いつも吞んでいるバーに連れて行ってくれたのは本当に貴重な思い出だ。
ミュージアムのひとによると、そこまでハワードが研究者に親切にしてくれるのはめったになかったらしい。21歳の頼りない大学生だったのが、かえって良かったのかな。
ハワードを通してベッシーの存在を感じるような気がした。
ということで!世界初公開(笑)



↓こちらが、1998年のその時の写真。
ベッシー・ヘッドの家の前です。途中で買ったファンタオレンジをあふれんばかりになみなみとマグカップに注いでくれました。ていうかこぼれてます。ハワードらしい気がした。

↓セロウェにあるベッシー・ヘッドのお墓です。

そんなハワードも、2007年ベッシー・ヘッド・フェストのときは大勢の参加者の中からわたしを見つけてくれて、「ヒトミ!」と呼んでくれた。覚えていてくれて本当にうれしかった。
そして彼は、そのすぐあと2010年に母親ベッシーと同じ年齢48歳で亡くなってしまった。
人生ってほんとうに何があるかわからない。
今という時間がどれだけ貴重かと思う。
だから、準備できていなくても下手でも、インタビューをして心からよかったと思う。
ありがとうハワード・ヘッド(´;ω;`)
そんなわたしも、あれから20年以上の時が経ち、ベッシー・ヘッドが亡くなった48歳という年齢にもあと数年となった。
まだベッシー・ヘッド活動を続け、昔よりもさらに精力的にベッシー・ヘッド・ヘリテージ・トラストとも仕事するようになって、いちおうずいぶん進歩はしたかな。
すべての出来事に、感謝したいと思う。
おまけ。
↓こちらは、わたしがアフリカ人生を始めるきっかけとなった大学のときのゼミ。
ちょうど、ボツワナに行く前の写真だと思う。
左端のおかっぱボブにヤギひげの方が、わたしの恩師です。
右端はわたしにとって思い出深いゼミの同期です。
もう会うこともありませんが、今では大学で教鞭をとっているらしいのをSNSでちらりと見かけます。
元気でいてくれるならそれでいいですね。
この中の誰とももう会うことはないでしょうけれど、大学時代には色んな思い出があります


あれから何年も経ち。
わたしは今でも毎日、作家ベッシー・アメリア・ヘッドと向き合い、彼女の声に耳を澄ませています。
世界のひとりひとりの個人の心の中に、宝物を届けたいと思っています。

photo by Yohta Kataoka





南アフリカの作家ベッシー・ヘッド(1937-1986)の紹介をライフワークとしています。
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