仕事であるイスラム教の国に関する資料を読んでいて、思い出したことがある。

数年前、ある中東の国からの研修生を日本に迎え、プラント視察に同行したことがあった。
ODAの仕事では、途上国からの研修生を受け入れ、講義や関連施設の視察などをすることがあるのだが、これにコンサルタントが同行することもある。

このプラントでは、見学者も先方指定の作業服を着用する必要があったため、あらかじめ人数と希望する服のサイズをリストにして伝えてあった。

わたしは、身長が173cmある。
トップスはたいてい普通のMサイズ程度で大丈夫なことが多いのだが、ボトムスはそういうわけにはいかない。
Mサイズだと、100%に近いくらい丈が足りず恥ずかしいことになるか、最悪、着用ができなくなる。

というわけで、しっかりと「女性用Lサイズ」を希望していた。


ところが、当日用意されていたのは、ハイ!
ばっちりしっかり抜かりなく、小さすぎる「Mサイズ」だった。


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Photo by Mark Stebnicki from Pexels

ひとはたいてい、他人の服のサイズに無頓着だ。
特に、わたしの「丈が足りない問題」は軽視されまくることばかりだ。
「太って入らない」というのならわかりやすいが、「丈が足りない」というのは想像しづらいのだろうか。
だが、本人にしてみれば、これは非常に重大な問題なのだ。

どうせ、プラント側も「女性」ということしか見ていなかったのだろう。
まさか作業服が入らないとは想定もしていなかったのだろう。

男女別に着替えの部屋が用意されており、そこで与えられたちびっこ用(←失礼)の作業服を確認した。

上下に分かれた作業服は、ジャンパーこそ若干小さくてもちびっこサイズでなんとかなるものの、ズボンに至っては当然ながらまるでお話にならない。

恐る恐る着用してみると、股下が短くて丈が「つんつるてん小学生」なのはもちろん、股上が短すぎて腰骨まで引き上げるとぎゅうぎゅうだった。

何とも無残な形になるだけでなく、ズボンが落ちるためもはやまっすぐ歩けたものではない。
死ぬほどきついし、ズボンから尻が半分はみ出してるんだもの。

それでも、いちいち文句を言って変えてもらうのも気が引けて、(リクエストと違うものを用意した責任は先方にあるのだから言ってもいいんだけど)、無理やり尻をねじ込んだ。

幸い、私服のセーターが尻まで隠れる長さだったので、それで尻を無理やり隠して逃れられそうだった。


だが、しかし。


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Photo by Hasan Almasi on Unsplash

同じ部屋で着替えをしていたイスラム教の国から来た女性3名が何やらわたしの方を見てアラビア語で話している。

何かと思ったら、次の瞬間、わたしのセーターを貸してくれないかと言うではないか。
ちょ!わたしの尻を隠す重要なセーターなんだけど!!
と内心思った。

どうやら、3人の女性のうち一人は上着を脱ぐとトップスが短いため、ズボンのお尻が見えてしまうということだった。

お尻がすっぽり入るズボンならいいじゃないの!!!!!
と、そもそも作業服のズボンに尻が入らないわたしは強く反論した…かった。

しかも、「わたしたちは、(お尻を/体を?)見せてはいけないから」とのたまうムスリム女性。

日本人だろうがどこの国だろうが、見せていいってもんじゃないんだよ!!!!
と、想定の30%くらいの強さで反論してみた。

だが、通用しない。

向こうは、日本人=尻を見せて良し!の文化だと思い込んでいる。

かくして、流された私の言葉と涙とともに、非常に大切なロング丈のセーターをその女性に貸し、軽視されたわたしの尻は見るも無残な恥ずかしい状態となったのだ。


作業服の短いジャンパーを必死で引き下げ、3歩歩くたびにズボンのすそをあげ、ほとんどカバーしてくれないジャンパーに無理やりカバーする仕事をさせようと全力で引っ張り続ける。(手を離したら終わる)

当然、もはやプラント視察どころではない。
まともに歩けないくらいなんだもの。


それでも、わざわざ日本にやってきた研修生のムスリム女性のためならと思っていた。




でも。

それは間違っていると今では思う。




自分は、プラント見学の間ずっと泣きそうな気持だったからだ。

情けなくて、かっこ悪くて、数歩も持たないズボン。
もしかしたら気づいた人は誰もいなかったかもしれなかったけれど、そんなことをしてまで大事なセーターを貸してしまった自分を、今では恥じる。


泣くくらいなら(心でだけど)、貸さないか、もしくは貸してあげるけど自分は作業服が着られないからプラント見学をあきらめて控室で待っていればよかったのだ。


自己犠牲というのは、昔から日本という国では美徳のように語られてきた文化があり、今でもそれはあると思う。

でも、その自分の自己犠牲で、自分自身が泣いたり傷ついたり、何かを失ったりするのだったら、それは「良いこと」ではないと強く思う。

わたしを泣かしてまで、その女性はセーターを借りたかっただろうか。

そんなことはきっとないはずなのだから。

つまりそれは、わたしの自己満足でもあったのだ。
自己犠牲している、自己満足。



相手のために、誰かのために。
そういうことばを使うひとはたくさんいるし、それ自体はわたしもいいことだと思う。
わたしも、もちろん誰かのために役に立ったらそんな嬉しいことはない。


でもそれは、わたし自身が幸せで笑っているからできることなのだ。

そこをはき違えては、世の中苦しくなっていくだけなんだと思う。

そして、自己犠牲に陥る方が簡単だということを肝に銘じておきたい。
きちんと見極めて、できるだけ自分も含めたみんながハッピーになるソリューションを、いつでも考えていたいと思うのだ。






南アフリカの作家ベッシー・ヘッド(1937-1986)の紹介をライフワークとしています。
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