A Question of Powerを読了した。
はっきりとは記憶していないが、最後に通して読んだのは20年くらい前なのではないだろうか。

この作品は、ベッシー・ヘッド作品の中では間違いなくもっとも有名で、かつ確実に強烈な印象を残す一冊であろう。

いわゆる自伝的三部作と呼ばれる三作がもっとも知られていると思う。
いずれも、ボツワナの農村を舞台とし、そこへやってくる外部者をキーパーソンとする物語だ。

一作目のWhen Rain Clouds Gatherは、1968年最初に発表された長編小説だ。プロットとしてはシンプルだが、言葉が美しくそこに込められたアパルトヘイトや人種差別、部族主義、アフリカの独立に対する鋭い視点が驚くほど秀逸だ。シンプルなのに深い作品だ。

二作目のMARUは、1971年。
前作よりもさらにボツワナの中における人種主義、差別構造に切り込んだ作品だ。
奴隷として扱われている民族出身の子が教育を受け、教師になって村に赴任してくるところから始まる。
そして王族の青年が「恋」に落ちる(厳密にはどうかな)という当時としては非常にセンセーショナルな物語だ。

そして、問題の三作目。
A Question of Powerは1973年にロンドンおよびニューヨークの出版社から出されている。
なぜこの作品が強烈かというと、まさにベッシー・ヘッド本人が何年もの間苦しんだ「悪夢」をそのまま描いているからだ。
毎夜のように現れるそれは、悪夢というには生易しい。現実と「幻覚」との境目がほとんどないのだ。

ベッシー・ヘッドにとってそれは、リアリティだった。
そして、何度か精神病院に入院させられる。
いわゆるSchizophrenia(統合失調症)と診断されてしまう。



この作品の主人公Elizabethは、ベッシー本人と同じ南アフリカで生まれたカラード。
もちろん設定は、著者と同じ、白人の女性と黒人の男性の間に生まれた違法出生。

Elizabethは幼い一人息子とボツワナの村で生活を始める。
眠ろうとすると、決まって恐ろしい幻影たちが現れる。

Selloは、村に実在する人物(と描かれている)であるが、悪夢の中に現れるSelloは、僧の姿をしていて神のようだったり茶色のスーツを来て悪魔のようだったり。
神と悪を兼ね添えた恐ろしい存在。いや、神と悪というか高貴さと世俗さ(下世話さ)というか…。

Danは、美しい男だが悪魔の化身そのもの。
性的な魅力を振りまいて、夜な夜な一晩中ありとあらゆる女(71人のnice-time-girlsだったり、Ms. Pink Sugar Icingだったり、The Wombだったり…次から次へと気持ち悪い女の生き物が出てくる)とセックスしている。
そして、ありとあらゆる暴言を吐き、Elizabethには性的な受容力がないだろう、死ねと繰り返す。

また、女の幻影としてMedusaが登場する。

いずれも、Elizabethに対して憎しみと悪意を投げつけ、彼女を殺そうとする。

彼らが象徴しているのは、人種的アイデンティティ(カラードというのは人種的に中途半端であり「劣っていて生きる価値のない存在」だと殺意を浴びせられる)やアフリカにおける部族主義、人種差別、性的な暴力といった強烈な力。

それらが、外国からやってきた家族も故郷もなく人種的にも白人でも黒人でもないElizabeth(すなわちベッシー本人)という存在に襲いかかる。


一方で、ボツワナの農村におけるElizabethの現実世界の生活でも、物語は少しずつ進んでいる。
地元で多くのひとを巻き込んだ開発プロジェクトに参加し、Elizabethは野菜づくりに精を出すのだ。

もちろん、ベッシー・ヘッド本人も野菜づくりに関わり、とくにCape Gooseberry(ブドウホオズキ)を育てジャムを作って販売することで収入向上につなげていくのだ。

この現実社会と悪夢とが交互に現れてくるこの作品。
いや、実際には夜が明けてもSelloがそこに座っていたりするので、境目がない。

そして最後には…。


この作品が賛否両論となるのも理解できる。


わたしのお世話になっているベッシー研究者も、この作品は25回ほど読んだが、読むたびに変わってくるというコメントをしているが、まったくその通りだと思う。



わたし自身がこの作品を最初に読んだのは大学生の時で、そのときは図書館にあった日本語訳の『力の問題』を読んだのだと思う。

その後、Heinemann版の原書を読んだと記憶している。
それも、新卒の頃だと思うので20年以上前だ。

久しぶりに引っ張り出してじっくり読んだHeinemannバージョンのA Question of Powerは、本当に深く香り高い美しい作品だと感じた。

もちろん、下世話でグロテスクなシーンもたくさんあるのだが、そんな中でもベッシーがこれをリアルに描き出すことで、どんなことを語りたかったのかと深く考えさせられるような作品なのだ。

この本、当時のわたしの書き込みがほとんど全てのページに残っている。
英語も難しかったので、単語の意味などが書き込まれている。

今は当時より英語の読解力もずいぶん上がっていることもあり、作品の印象もまるで違う。

この作品がどれほど読む人の心にグッと力をかけ、襲いかかり、そして美しい世界へと解放していくのかということが、改めてよくわかった。


いくつか引用をしておきたい。



Love is two people mutually feeding each other, not one living on the soul of the other.
愛とは、ふたりの人間がお互いに与えるもの。片方が、グール(食屍鬼)のように相手の魂に巣食うものではない。



If the things of the soul are really a question of power, then anyone in possession of power of the spirit could be Lucifer.
魂のことが本当に力の問題であるのならば、精神の力を持っている者は誰でもルシファーなのだ。
(この訳は見直しの余地大いにありだけど…)

それにしてもこの作品は、日本語を含め様々な言語に訳されていると思うけれど、これを訳すってどんな気持ちなのかなと思う。
悪夢の世界に引き込まれてしまうか、頭がおかしくなりそうになるか、そんなところではないだろうか。

美しさと強烈さの波にやられて。


それにしても、この作品だけではないのだが、ベッシー・ヘッドというひとの教養の深さを思わせるところが多い。
著名な文学作品や詩が多用される。
D.H.ロレンス、Y.B.イェイツ、ジョン・キーツ、ラドヤード・キップリングなどなど…
シェイクスピアくらいちゃんと読んでおくべきだった。
いきなり登場人物の名前が出てくるんだもの。

さらには、ルネサンス期の王妃やキリスト教、ヒンズー教、もちろんアパルトヘイトにまつわる現代史、南部アフリカの歴史、そういうものが次々出てきて、知識がないと苦労をする部分もあるかもしれない。


ベッシー・ヘッドは、子どもの頃セント・モニカ(孤児院)で図書室の本を読破してしまい、とうとう校長先生の蔵書を読み始めたという話も伝記に書かれている。




大学生のころに、世界の文学作品をもっと読み漁っておけばよかったなどと思っていても仕方がない。
無味乾燥な仕事の本ばかりでなく、薫り高き文学作品に触れることがどれだけ人生を豊かにしてくれることか、といい年齢になってようやく思う。

なので、文学作品をひたすら読みたくなってきた。


そして、この作品を題材にした論文や本は多く出版されているのだが、改めてそれらを読み返してみて、現在のわたしなりの考えをまとめてみたいなと思う。

こういう作業が楽しくてたまらない。


なんせ、大学院の課題とかじゃないし!論文の締め切りもないし!


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日本語版はこちら。ねんのため。

力の問題
ベッシー ヘッド
學藝書林
1993-07T






南アフリカの作家ベッシー・ヘッド(1937-1986)の紹介をライフワークとしています。
(詳しくはこちら)

■作品の翻訳出版に向けて奔走しています。
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