「30歳になるまでにアフリカで暮らす」という漠然とした夢が叶い、28歳でジンバブエのハラレに赴任することになったのは2005年。

実は、子どもの頃から大の「物件好き」のわたしは、外国で住む家を探すという事実にいちばん興奮していた。(仕事じゃないんだ…)

何せ、子どもの頃、親に連れられて仙台の祖父母に会いにいく道すがら、新幹線の窓のそとに流れゆく家々を見ては、あの家に住んだらどうか、この家はどうかなどとずっと妄想して飽きなかった。
ときどき親に連れて行ってもらった住宅展示場など、もう大好物だった。

学校の廊下を歩きながら、「この建物はわたしの巨大な屋敷でわたしはこの家の主人。廊下を歩く生徒や教員は、みんな召使い。でもそれは秘密だからみんなしれっとした顔をしているのよ」などと危険な妄想をするような子どもだった。

だから、大学2年生の終わりのアパート探しも、エディバラ大学での寮生活(1690年に建てられた歴史ある建物)も楽しかった。

ジンバブエでは、どう考えても東京の狭いアパートなんかよりずっと広くて素敵な家が待っている!
想像して鼻息を荒くしていたのだ。


初めてのジンバブエの首都ハラレは、明るくて気候の良いきれいなところだった。

まず泊まったのは、ブロンテ・ホテルという庭の美しい英国調のホテル。
この国が英国植民地であったことを思い出させる。

ホテルに落ち着き、新しい職場のあれこれもやりつつ、いざジンバブエで家探しを始めた。

通常は、前任者の家を引き継ぐという慣習があるのだが、わたしの前任者の変わった男性は郊外の一軒家に住んでいたそうで、その家を引き継ぐというオプションはもともとなかった。


職場の単身者は、ほとんどが職場近くの同じ高級マンションに住んでいた。
当時、経済状況が悪化の一途を辿っていたジンバブエでは毎日のように停電が起きていたのだが、大統領官邸やオフィス街に近い高級マンションのあたりは停電頻度が低かったのだ。

セキュリティ的にも、そのマンションに部屋を探すことが妥当と多くのひとは考えるだろうけれど、わたしの第一条件は、「職場のひとたちが住んでいないところ」だった。

仕事以外でも職場の人がいるなんてNO!と思っていたのだ。


そんなひねくれ者で妙なこだわりのあるわたしの家探しは、なかなかに時間がかかってしまった。

ホテルを出て、一時期、どこかの家の敷地内にあるコテージのような場所に滞在した。
コテージといっても、とても素敵な別荘のようで小ぶりのベッドルームが二つにおしゃれなキッチンとリビング、ダイニングが付いていて申し分のないところだった。

しかし、残念ながらこの家は長期借りることができず。

その後、何軒も内見した。
街中のタウンハウスやアパートなど。
物件好きとしては、いろんな家を見ることだけでとても楽しい時間だった。

その中で、一軒だけどうしても思い出す家がある。

一目見てとても心惹かれたのだ。

確か、職場のある街中からは少し離れたマウント・プレザントという閑静な住宅街にあったと思う。
その家は、その前に宿泊していたコテージよりもさらにコテージ感のある家だった。

奥まった感じの良い小道にあり、入口からさらに細い道を奥に入るとあるタウンハウスのような家。
何軒かが連なり、ハラレらしい美しい花と緑に囲まれた家だった。

吹き抜けのような高い天井とテラコッタのタイル、ラタンの家具がよく似合う。庭の美しい緑と明るい光に溢れたその家は、本当にすてきだったのだ。

建築には詳しくないけれど、少し簡素な作りだったんだと思う。
きっと寒い日は隙間風が入るだろう。

でも、こんな素敵な家で暮らしたらなんと素敵だろう、と一気に妄想が爆発した。
まるで南仏のリゾート地の郊外にひっそりと建てられたコテージのようだった。

来る日も来る日も、仕事が終わって帰るとここで癒され、朝や週末は明るい光が差し込み、素敵なキッチンで料理を作る。
そんな時間(南仏コテージに暮らすわたし)が妄想の中で流れていった。



結局、この家に住むことはなかった。
その理由をもうすっかり忘れて思い出せそうにない。

おそらくセキュリティだったかな、と思う。
仕事の都合上、セキュリティに関しては警備担当官が契約前の内見時に厳しくチェックするのだ。



その後、高級住宅地の少し外れた静かなところにあるダンダロ・ビレッジで、アフリカン・アメリカン男性とタイ人女性の夫婦が所有している小さなタウンハウスに住むことに決まった。

ダンダロ・ビレッジはリタイアメントホームで、実は50歳以下は入れないということになっているのだが、わたしは大家の計らいで特別に借りられることになったのだ。

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画像解像度低くてごめんなさい

この家はこぎれいな2ベッドルームで、コテージなんかよりちゃんとした建物で、タイ人の奥さんがとてもきれいに家具を揃えとても快適な場所だった。
職場のある街中からは、7キロほど離れていたのも理想的だった。

入居可能日まで二週間ほど時間があったので、この夫婦が街中に所有している別のマンションに滞在し、いざ2年を過ごす家に入居したときには、ジンバブエに来てからひと月半近くの時間が過ぎていた。

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でも。
何故かわたしの心の中では、あのとき一度だけ見たマウント・プレザントの明るい南仏のようなコテージがとても深い印象を残している。
おかしなことで、もう正確な場所も思い出せないのだけれど、どちらかというと家そのものというよりもあの時浮かんだ「この家で暮らすわたし」の妄想が今でも蘇る。


それは子どもの頃の妄想と、根本的には似ているんだろう。

この家で暮らすわたし、とは言わば「別の人生」なのだ。
別の人生のわたしについて、想像を巡らせている。
もしこんな人生だったら?あんな人生だったら?

そうやって、実際には描かれることのなかった別の可能性に思いを馳せている。


旅に出るたびに、この街に暮らす自分というかけらを。
すてきな家を見るたびに、この家に暮らす自分というかけらを。


たぶんわたしは、少しずつそっと置いていっているのだと思う。


そしてわたしは、いまでも密かにそんなことをやっている。



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ジンバブエで結局暮らすことになったダンダロ・ビレッジについては、ずいぶん昔こちらに書きました。
かろうじて残っている。






ちなみに、このlivedoorブログへはジンバブエへの赴任をきっかけに移行してきたので、最初の記事はちょうどこの頃のことが書かれています。
でも、当時のわたしは具体的なことをほとんど書かなかったようです。



南アフリカの作家ベッシー・ヘッド(1937-1986)の紹介をライフワークとしています。
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