1998年、大学生だったわたしは、いよいよ初めてのアフリカに旅立とうとしていた。
この件について、少し事情があって実は今まではっきり書いたことはなかったんだけれど、最近よく思い出すので書くことにした。
23年前、大学生の私。
ボツワナはセロウェ村のミュージアムに保管されている作家ベッシー・ヘッドの書簡や文献を見たい。
なにより彼女ゆかりの地であるボツワナや南アフリカを訪れたいと思い、あれこれと試行錯誤した。
苦労したが、多くのひとに助けてもらったおかげで(もちろん、やたら止められもしたが
)なんとかボツワナ政府の文献調査許可も取得し、ボツワナ大学の受け入れも決まった。
実はわたしの持っていたチケットは特殊で、かなり制限のあるものだった。
当時、南アフリカ航空が関西空港に就航していた時期だった。
わたしが入手できたのは、関空からヨハネスブルグまでのチケットのみ。
そこから先、第一目的であるボツワナまでのチケットがなかったのだ。
当時、今のようにネットで格安航空券など気軽に買える時代ではなかった。
かといって、航空関係の父が手に入れてくれた特殊なものだったので、わざわざどこかの旅行代理店に質問するというのもどうか。
そう考え、その航空券を出した事務所に電話したのだ。
もちろん、お客様向けサービス窓口ではないので、何もわからず電話した大学生への対応はひどいものだった。
今でも忘れられないのだが、電話口の男性(おっさん)は、わたしが「父がこの電話番号で訊いてみるようにと言いました」と言ったとたん私のことを子どもだと思い込んだらしく、「お父さんに訊いてみてね〜」などと小さな子どもを諭すような口調になり、質問に答えようとしない。もちろん、調べてもくれない。
子どもが一人でアフリカ行くかいな。(心のツッコミ)
父がここに訊けと言ったって言ってるやん。(心のツッコミ2)
その後も、同じ事務所だったと思うんだけれど、別の電話口に出た女性(おばちゃんか?)にヨハネスブルグから先の乗継便について質問した。
大学生の私「ヨハネスブルグからエアボツワナがあると思うのですが、その時間はわかりますか?」
女性「は!!??ボスニア!???」←声と態度が巨大
大学生の私「い、いえ、ボツワナなんですけど。エアボツワナ…」
女性「は?そんなものはありませんッ!!!」←断言
その後。
きっとヨハネスブルグについたら何とかなるだろう、航空券も買えるだろうと思い、鼻息荒く勇んで羽田から関空へ飛んだ。
ところが、この航空券、子ども扱いおじさんも、声でかおばさんも知らなかったのかわからないが、重大な制限があった。
関空から南アまでの便は週2回ほど就航していたのだが、その曜日は私の持っていた種類のチケットでは搭乗できなかったのだ。
このことをわたしは関空のカウンターで初めて知ることとなる。
アフリカへ一か月行くための大荷物を持ち、夢に描いた人生の大冒険にいざ出発!という21歳大学生。
カウンターでは、満席です、の一点張り。
どうしてもわたしを乗せたくなかったのだ。(これにはもちろん諸事情があるのはわかる)
すでにあれこれ手配していた自分にとって重大な旅なのに、ここで日本を出発することもできないとは。
例の事務所に電話してもこの搭乗制限を教えてもらえなかったことや、色んな事情を涙ながらに説明しても、向こうは態度を硬化させるばかり。
それどころか、わたしが東京に戻る飛行機について心配し始める始末。
今考えると、それは親切を装った暴力にすら思える。
わたしの望みは東京に帰ることを心配してもらうことであるわけがない。アフリカへ行きたいのだから。
わたしは、「そんなこと(羽田へ帰る便)はどうだっていいんですよ!!アフリカにいかなきゃならないんです!」と交渉した。カウンターには、航空会社の職員が何人も集まっていた。
航空券を購入したら60万円です、と大学生のわたしに言った女性職員を覚えている。
少し焦ったような、どうやってこの大学生を追い返すかという必死な気持ちが透けて見えたことが、余計に悲しくなった。
向こうの事情はあるかもしれないが、当たり前だけど私の気持ちを察してくれる人はいない。
満席ですの繰り返しで数時間。
結局、南ア行きのフライトは無事にわたしを乗せずにアフリカに向かって飛び立った。
↓イメージ図

あとから聞いたところによると、この便はほとんど空席だったそうだ。
やがてこの航路は、集客が見込めずに廃止となる。
大冒険どころか、わたしはまず、そもそもアフリカへ発つことすらできなかったのだ。
寄ってたかって大人に夢をつぶされた気持ちになったわたしは、関空で日が暮れていく空を見上げ、心配していた両親に「関空の夜」というクッキーを買って千葉の両親宅に帰った。
ひとより不器用でお茶目でドジなわたしは、どうにもわけのわからない回り道のような苦労をして凹んだりすることが人生の中で数えきれない。
アフリカ大冒険に行く前に、すでにこれだけの苦労があるのもすごい。
でも、いま40代になった自分は21歳大学生だった自分に言ってあげたい。
寄ってたかって「夢をつぶそう」としていたそのひとたちはね、ただ単に無知だったり、自分の仕事の範囲でしか考えていないだけのことに過ぎない。それは本当に些細なことなのだ。
人はなかなか、自分の想像の範囲を超えるものを受け入れられないものだというのは、その後アフリカに関わる長い年月の間によくわかった。
それでも、21歳、夢にあふれアフリカへの情熱だけでいざ渡航しようとしていた自分にとっては、胸に穴が開くほど悲しかったんだよね。
よくわかるよ。
教えてあげる。
そのあとすぐに、両親が航空券を入手してくれて、無事にシンガポール経由でヨハネスブルグ、それからボツワナのハボロネに飛ぶことができたよ。
2か月の滞在をして、大学卒業後もエディンバラ大学でアフリカ研究センターの修士号を取り、それから今でもずっとアフリカに関わる仕事をしているよ。
たくさんたくさんアフリカに行ったよ。
ボツワナじゃないけど、隣の国ジンバブエに住んだよ。
1998年。
あのときの空港カウンターでわたしを必死に追い返そうとしていた「満席コール」の皆さんも、電話口の「ボスニア」のおばさんも、もちろんわたしのことなんて覚えていないでしょうけど、あのときの皆さんにそっとお伝えしますね。
わたしはその後、おばさんによると存在しないはずの「エア・ボツワナ」でボスニアではなく「ボツワナ」と呼ばれる国に行き、現在でもアフリカに関わる仕事をしています。
ボツワナに行くそもそもの理由となった作家ベッシー・ヘッドを、今でも敬愛しています。
そのことだけ、お伝えしておきます。

南アフリカの作家ベッシー・ヘッド(1937-1986)の紹介をライフワークとしています。
(詳しくはこちら)
■作品の翻訳出版に向けて奔走しています。
■作家ベッシー・ヘッドについてnoteで発信しています。
⇒ note「ベッシー・ヘッドとアフリカと」
⇒ note「雨雲のタイプライター|ベッシー・ヘッドの言葉たち」
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■ Amelia Oriental Dance (Facebookpage)
■ 『心と身体を温めるリラックス・ベリーダンス』
■ Rupurara Moonアフリカンビーズ&クラフト





この件について、少し事情があって実は今まではっきり書いたことはなかったんだけれど、最近よく思い出すので書くことにした。
23年前、大学生の私。
ボツワナはセロウェ村のミュージアムに保管されている作家ベッシー・ヘッドの書簡や文献を見たい。
なにより彼女ゆかりの地であるボツワナや南アフリカを訪れたいと思い、あれこれと試行錯誤した。
苦労したが、多くのひとに助けてもらったおかげで(もちろん、やたら止められもしたが

実はわたしの持っていたチケットは特殊で、かなり制限のあるものだった。
当時、南アフリカ航空が関西空港に就航していた時期だった。
わたしが入手できたのは、関空からヨハネスブルグまでのチケットのみ。
そこから先、第一目的であるボツワナまでのチケットがなかったのだ。
当時、今のようにネットで格安航空券など気軽に買える時代ではなかった。
かといって、航空関係の父が手に入れてくれた特殊なものだったので、わざわざどこかの旅行代理店に質問するというのもどうか。
そう考え、その航空券を出した事務所に電話したのだ。
もちろん、お客様向けサービス窓口ではないので、何もわからず電話した大学生への対応はひどいものだった。
今でも忘れられないのだが、電話口の男性(おっさん)は、わたしが「父がこの電話番号で訊いてみるようにと言いました」と言ったとたん私のことを子どもだと思い込んだらしく、「お父さんに訊いてみてね〜」などと小さな子どもを諭すような口調になり、質問に答えようとしない。もちろん、調べてもくれない。
子どもが一人でアフリカ行くかいな。(心のツッコミ)
父がここに訊けと言ったって言ってるやん。(心のツッコミ2)
その後も、同じ事務所だったと思うんだけれど、別の電話口に出た女性(おばちゃんか?)にヨハネスブルグから先の乗継便について質問した。
大学生の私「ヨハネスブルグからエアボツワナがあると思うのですが、その時間はわかりますか?」
女性「は!!??ボスニア!???」←声と態度が巨大
大学生の私「い、いえ、ボツワナなんですけど。エアボツワナ…」
女性「は?そんなものはありませんッ!!!」←断言
その後。
きっとヨハネスブルグについたら何とかなるだろう、航空券も買えるだろうと思い、鼻息荒く勇んで羽田から関空へ飛んだ。
ところが、この航空券、子ども扱いおじさんも、声でかおばさんも知らなかったのかわからないが、重大な制限があった。
関空から南アまでの便は週2回ほど就航していたのだが、その曜日は私の持っていた種類のチケットでは搭乗できなかったのだ。
このことをわたしは関空のカウンターで初めて知ることとなる。
アフリカへ一か月行くための大荷物を持ち、夢に描いた人生の大冒険にいざ出発!という21歳大学生。
カウンターでは、満席です、の一点張り。
どうしてもわたしを乗せたくなかったのだ。(これにはもちろん諸事情があるのはわかる)
すでにあれこれ手配していた自分にとって重大な旅なのに、ここで日本を出発することもできないとは。
例の事務所に電話してもこの搭乗制限を教えてもらえなかったことや、色んな事情を涙ながらに説明しても、向こうは態度を硬化させるばかり。
それどころか、わたしが東京に戻る飛行機について心配し始める始末。
今考えると、それは親切を装った暴力にすら思える。
わたしの望みは東京に帰ることを心配してもらうことであるわけがない。アフリカへ行きたいのだから。
わたしは、「そんなこと(羽田へ帰る便)はどうだっていいんですよ!!アフリカにいかなきゃならないんです!」と交渉した。カウンターには、航空会社の職員が何人も集まっていた。
航空券を購入したら60万円です、と大学生のわたしに言った女性職員を覚えている。
少し焦ったような、どうやってこの大学生を追い返すかという必死な気持ちが透けて見えたことが、余計に悲しくなった。
向こうの事情はあるかもしれないが、当たり前だけど私の気持ちを察してくれる人はいない。
満席ですの繰り返しで数時間。
結局、南ア行きのフライトは無事にわたしを乗せずにアフリカに向かって飛び立った。
↓イメージ図

あとから聞いたところによると、この便はほとんど空席だったそうだ。
やがてこの航路は、集客が見込めずに廃止となる。
大冒険どころか、わたしはまず、そもそもアフリカへ発つことすらできなかったのだ。
寄ってたかって大人に夢をつぶされた気持ちになったわたしは、関空で日が暮れていく空を見上げ、心配していた両親に「関空の夜」というクッキーを買って千葉の両親宅に帰った。
ひとより不器用でお茶目でドジなわたしは、どうにもわけのわからない回り道のような苦労をして凹んだりすることが人生の中で数えきれない。
アフリカ大冒険に行く前に、すでにこれだけの苦労があるのもすごい。
でも、いま40代になった自分は21歳大学生だった自分に言ってあげたい。
寄ってたかって「夢をつぶそう」としていたそのひとたちはね、ただ単に無知だったり、自分の仕事の範囲でしか考えていないだけのことに過ぎない。それは本当に些細なことなのだ。
人はなかなか、自分の想像の範囲を超えるものを受け入れられないものだというのは、その後アフリカに関わる長い年月の間によくわかった。
それでも、21歳、夢にあふれアフリカへの情熱だけでいざ渡航しようとしていた自分にとっては、胸に穴が開くほど悲しかったんだよね。
よくわかるよ。
教えてあげる。
そのあとすぐに、両親が航空券を入手してくれて、無事にシンガポール経由でヨハネスブルグ、それからボツワナのハボロネに飛ぶことができたよ。
2か月の滞在をして、大学卒業後もエディンバラ大学でアフリカ研究センターの修士号を取り、それから今でもずっとアフリカに関わる仕事をしているよ。
たくさんたくさんアフリカに行ったよ。
ボツワナじゃないけど、隣の国ジンバブエに住んだよ。
1998年。
あのときの空港カウンターでわたしを必死に追い返そうとしていた「満席コール」の皆さんも、電話口の「ボスニア」のおばさんも、もちろんわたしのことなんて覚えていないでしょうけど、あのときの皆さんにそっとお伝えしますね。
わたしはその後、おばさんによると存在しないはずの「エア・ボツワナ」でボスニアではなく「ボツワナ」と呼ばれる国に行き、現在でもアフリカに関わる仕事をしています。
ボツワナに行くそもそもの理由となった作家ベッシー・ヘッドを、今でも敬愛しています。
そのことだけ、お伝えしておきます。

南アフリカの作家ベッシー・ヘッド(1937-1986)の紹介をライフワークとしています。
(詳しくはこちら)
■作品の翻訳出版に向けて奔走しています。
■作家ベッシー・ヘッドについてnoteで発信しています。
⇒ note「ベッシー・ヘッドとアフリカと」
⇒ note「雨雲のタイプライター|ベッシー・ヘッドの言葉たち」
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■ Amelia Oriental Dance (Facebookpage)
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