今日4月17日は、作家ベッシー・アメリア・ヘッドが亡くなった日だ。

1986年のこの日、ボツワナのセロウェ村の病院に運ばれたときにはすでに手遅れで、友人であったHugh PearceとMmatsela Pearceに片手ずつ握られ、同日夕方、セロウェ病院でこの世を去ったという。片方は白い肌に、もう片方は黒い肌に触れながら。

ベッシー・アメリア・ヘッドは48歳。肝炎だった。

この作家のことをわたしがどうやって知り、どうしていままでずっとライフワークとしてきたのか、断片的にはブログや寄稿した記事などに多く書いているのだが、ここで一本の記事としてまとめた方が良いと感じている。

いずれは、一冊の本にできるくらいの内容ではあると思うのだが、ベッシー・ヘッドとわたしとのつながりについて、全く知らない人が見て把握できるようなまとまった短めのものを書いておきたいと思ったのだ。(でもブログ記事にしては正直長すぎと思う)


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1. そもそも作家ベッシー・アメリア・ヘッドとは誰なのか
2. ベッシー・ヘッドの文章に出会い「これはわたしが書いた文章?」と思った
3. 大学4年生でボツワナと南アフリカへ、そしてエディンバラ大学
4. 9年後に戻ったボツワナ〜Bessie Head Festに参加する
5. ベッシー・ヘッド作品を翻訳して日本語で出版したい
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1. そもそも作家ベッシー・アメリア・ヘッドとは誰なのか

ベッシー・アメリア・エメリー(Bessie Amelia Emery)は1937年、南アフリカの東海岸ダーバンから70キロほど内陸にあるピーターマリッツブルグの精神病院で生まれている。母親は同じベッシー・アメリア・エメリーという名の白人女性。父親は黒人と考えられるが真相は不明だ。

時代はアパルトヘイトの根幹となる人種主義的な法制度が整備されていった時期。人種間の結婚、性行為は禁止だった時代の「違法」な出生であった。

最初、白人家庭に里子に出されたベッシーだったが、肌の色がおかしいと返されてしまう。その後、ピーターマリッツブルグの「カラード」(南アフリカのオランダ系移民とアフリカ系黒人、マレー系等との混血とされるが、ここではアパルトヘイト施策下で人種隔離の為の人種を分類する呼称である)の養父母に引き取られ、実の両親と信じて育つ。

13歳のときに入れられた英国国教会系のセント・モニカ(全寮制の実質的な「孤児院」)にて過ごすようになるが、クリスマス休暇で帰ろうとした13歳のベッシーに対し、学長が彼女の出生の衝撃的な真実を伝えてしまう。

「あなたは家へ帰れません。あの女性はあなたの母親ではありません。あなたの母親は精神障害者だったのです。あなたも気をつけないと、母親のようにおかしくなってしまいますよ。あなたの母親は白人の女性でした。黒人*の馬屋番の子どもを身ごもったから、家族は彼女を閉じ込めざるを得なかったのです」

*実際、母親の実家は競走馬を所有していなかったため馬屋番は存在せず、しかも母親は直前まで家族に妊娠を気づかれず、お腹の子どもが黒人の子であるということは誰も知らなかった。母親は精神を患って入院していたのである。


このことがベッシーの人生にとってもっとも衝撃的な出来事となった。

卒業後、教師となるもやがて職を辞し、その後ケープタウンでジャーナリストとなったベッシー。1950年代後半から1960年代前半のアパルトヘイトが厳しい時代に政治活動に関わる。その頃、同じジャーナリストのハロルド・ヘッドと出会い結婚する。
しかし、その結婚は間も無く終わり、1964年2歳にもならないひとり息子のハワードを連れて、二度と南アフリカへの帰国を許さない出国許可証を手に、当時のベチュアナランド英国保護領(ボツワナ)へ亡命した。26歳だった。

その後、ボツワナのセロウェ村で難民として苦しい生活を送っていたが、南アフリカ、ニューヨーク、ロンドンなどの雑誌等に記事を寄稿し、やがて小説「When Rain Clouds Gather」「Maru」「A Question of Power」などを発表し、世界的にも名前の知られる作家となっていく。
だが、同時に精神を病み、精神病院への入退院を繰り返すようにもなる。(その経験が、A Question of Powerに鮮明に綴られており、この作品は今でも解釈の議論を呼び起こす作品である)

世界各地で講演活動をするようになり、作家として成功し自伝の執筆も決まっていたが、1986年、48歳の若さで急にこの世を去ってしまう。

ベッシー亡き後も、世界中で彼女の作品は愛され現在でも版を重ね、各国語にも訳されている。ベッシー・ヘッド学会やシンポジウムなども開かれ、彼女に帰国を許さなかった南アフリカ政府は、2003年にその功績を讃えOrder of Ikhamanga(勲章)を授与している。

ベッシー・ヘッド本人についてさらに詳しく知りたい方は、こちらのnoteをご参照。
(まだ書き途中ですが)




2. ベッシー・ヘッドの文章に出会い「これはわたしが書いた文章?」と思った

大学で、わたしは偶然アフリカ研究のゼミを選択した。
アフリカのことなどほとんど全く知らなかったといって良かったが、なぜか「アフリカに関することならテーマ自由」という謎のゼミに惹かれたのだ。これは運命だったか何なのか。
ともかくも、その後わたしはずっとアフリカに関わって生きることになってしまった。

ゼミを選んだものの、テーマも決まらずどうするかと思っていたとき、旅先の古本屋で「アフリカ文学短篇集」(全3巻)に出会ってしまった。

もともと文学・小説が大好きだったからこそ、逆に文学研究というのは関心がなかった。本を読むことはとてもプライベートなことと思っていたから、文学研究だけは避けたいと思っていた。

漠然と南アフリカやアパルトヘイトに興味があったわたしは、アパルトヘイトに関わる研究で何かテーマはないかなと探していたのだ。当時はまだ、アパルトヘイトが終わり全人種投票が実現した数年後、90年代後半だった。

反アパルトヘイト運動、ネルソン・マンデラ、スティーブ・ビコ。
すぐに思いつくようなテーマは研究され尽くされていた。でも、アパルトヘイト当時、「黒人」による運動ではなく「白人」はどうだったのか。そういうことを漠然と考えていたのだ。

そして、アフリカ文学短篇集(4,000円くらいと大学生には高かった)から始まってやがて作家ベッシー・ヘッドというひとの存在を知ることになる。

わたしは高校生の頃から色々と文章を書いており大学でも文芸部だったのだが、そのときベッシーの文章を初めて目にした時に強烈に感じたことを覚えている。
「これは、わたしの書いた文章??」
それくらい、遠い国に生きたはずの彼女の文章が、わたしの心の中に響いたのだ。

そしてベッシーは、アパルトヘイトの時代に、黒人と白人の間に生まれたひとだった。

これがベッシー・ヘッドとわたしの出会いだ。

ときは、1997年ごろだったと思う。

3. 大学4年生でボツワナと南アフリカへ、そしてエディンバラ大学

大切なことなので書いておくが、わたしはいわゆる文学研究はしていない。そしてこれからもやっぱりしないと思う。

テキストの様々な解釈をするのは興味深いとは思うのだが、それは厳密な意味で客観的ではなく作者の意図ですらないと思っているからだ。だからそれを論文という形にすることなど考えられなかった。文学作品は、自分の心の中にどう響くか、自分の心がどういう状態なのかが重要だと信じているからだ。これはあくまでわたしの個人的な持論。

そしてベッシー・ヘッド作品は、かなりこの「個人的」な要素が強いと思う。
作品は、答えをくれない。自分がどんな心の状態なのか、このシャープな言葉たちをどう拾っていくのか。そして人生のどんな段階で、いつどうやって読むのか。これが重要なのだ。
(同様のことを、複数のベッシー・ヘッド研究者が書いている)

大学4年生になる前のある日、突然、「わたしはアフリカへ行く」と思ったのだ。
しかも、まだ行っていないのに「アフリカへ帰る」とすら思っていた。

1998年、大学4年生だったわたしは、大学の資料室にあったダイレクトリーに載っていたボツワナや南アの研究機関、大学、文学関係の組織等に片っ端からエアメールを書いた。
そして、その中の何通かが実際の縁に結びつき、初めてのアフリカ行きを実現させた。

いちばん大きかったのは、当時の在京ボツワナ大使館一等書記官プラ・ケノシ氏との出会いだった。
無知で世間知らずな大学生だったわたしのくだらない質問に丁寧に時間をかけて対応してくれ、ボツワナ政府の調査許可証の取得を手助けしてくれた。
そしてボツワナに関する多くのことを教えてくれた。
彼自身、ボツワナ大学時代に講演に来たベッシーに質問をしたことがあったという。

そして、1998年9月、わたしは初めてのアフリカへ向かった。
首都ハボロネのボツワナ大学で多くの研究者に会い、その後、ベッシーが暮らしたセロウェ村へ向かった。
セロウェ村のカーマ・メモリアル・ミュージアムでは、ベッシー・ヘッドの残した原稿や無数の手紙がアーカイブされており、世界中から研究者がやってきてはそれを閲覧できるようになっている。

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この写真は、ベッシー・ヘッドの残したノートやメモ類。

1998年秋の1ヶ月と少しを、わたしは首都ハボロネとセロウェですごした。

ミュージアムの片隅の小さな宿泊用の小屋に泊めさせてもらった。研究者がここに泊まってゆっくり文献を眺めるための施設がささやかに整えられている。

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ラッキーだったのだと思うが、この時ベッシー・ヘッドの一人息子ハワード・ヘッドと会うことができた。

他のベテラン研究者とは比べ物にならないくらい頼りなくて、他人の世話にばかりなっている21歳の大学4年生だったわたしに、ハワードはとても親切だった。

母親のベッシーの残したセロウェの小さな家(最初に出版した小説「When Rain Clouds Gather」にちなみRain Cloudsという名で呼ばれている)に暮らしていた。

この写真は1998年のそのときに撮ったもの。

上の写真は、ベッシーのお墓に立つハワード・ヘッド。
下の写真は、ベッシーの家Rain Cloudsの庭先に座りベッシーのことを色々話したとき。

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この旅は、わたしの中でとても大切で重要なものになった。

この時のことを中心に、その後のことも含めてKindleエッセイ本にまとめているので、詳しくはこちらをご参照。



その後、わたしはスコットランドのエディンバラ大学アフリカ研究センターの修士課程へと進んだ。ここでの学際的な学びはわたしの中の「アフリカ」を深めてくれ、結局わたしは改めてベッシー・ヘッドのことを修士論文にまとめた。テーマはアフリカにおけるアイデンティティについて。

ベッシー・ヘッドは、家族もないままアパルトヘイト社会の中で人種的にも曖昧な立場に生き、南アフリカのパスポートもないままボツワナに亡命し、市民権がもらえるまで長い年月を要した。
ずっと、アイデンティティを模索し、「故郷」を探し続けたひとでもあった。


4. 9年後に戻ったボツワナ〜Bessie Head Festに参加する

2007年、初めての大学時代のボツワナ・南ア訪問から9年後。

ベッシー・ヘッド生誕70歳を記念して、ベッシー・ヘッド・ヘリテージ・トラストが設立され、記念のベッシー・ヘッド・フェストが盛大に行われた。
ボツワナ大学では、多くの研究者が集まり数々のイベントが催され、セロウェ村でも詩のコンテストや朗読、演劇、記念植樹やスピーチなど、数百人のひとが集まって開催された。

当時わたしは、ボツワナの隣国ジンバブエで働いており、ボツワナへのアクセスは抜群だった。
2週間に渡って行われたこのイベントのため、ジンバブエの首都ハラレとボツワナを2往復もしてしまった。

この時の様子はヘリテージ・トラストのページにまとめられている。(わたしもこっそり写真に写っています。わたしの名前もちょっと出てる)



ハボロネでのセッションの様子。



セロウェでのイベントの様子。




亡くなって随分立つのに、これほどたくさんのひとが集まり、彼女を愛し、彼女の作品たちを愛しているということを初めて目の当たりにした気がして、心が動かされたときだった。

9年ぶりに会ったハワード・ヘッドはわたしの名前まで覚えていてくれて、こちらが声を掛ける前に「ヒトミ!」と呼んでくれた。

大学の頃から読んでいた本や論文を書いたひとたち、さらにはベッシー・ヘッドの伝記に出てくるような実際の友だちやベッシーの周辺にいたひとたちが、これだけたくさん集まって実在の人物として目の前にいるだなんて、わたしにとってはどの瞬間も感動的で何にも代えがたい貴重な経験だった。
今まで文字情報としてのみ名前を知っていたひとたちが、生きている人間としてここに存在していたことに感動した。

ベッシーはこうして、色んな人の人生に影響を与え、変えてしまったんだなぁとつくづく思った。

それはもちろん、わたしを含めて。


2010年、ベッシー・ヘッドの一人息子ハワード・ヘッドは、ボツワナのセロウェ村の家で、母親と同じ48歳で亡くなった。


大学のときにあれほどお世話になったプラ・ケノシ一等書記官(のちに大使)、そしてハワード。
それ以外にも、わたしのベッシー・ヘッドの作品を翻訳出版したいという思いを応援してくれた多くの方のうち、亡くなってしまったひとも少なくない。

いくら悔やんでも泣いても、ときは戻らないのだ。


5. ベッシー・ヘッド作品を翻訳して日本語で出版したい

明確にこのことを思ったのは正確にはいつだったか思い出せないけれど、少なくとも20年は経っていると思う。

ベッシー・ヘッドの小説は、1990年代初め頃に何冊か日本語に訳され出版されているのだが、わたしは自分の魂を通したベッシー・ヘッド作品を、丁寧かつ慎重に訳し、その魅力・美しさと圧倒的な力を日本のひとに感じて欲しいと願ってきた。

世界中のひとの心にストレートに響き、いまだにファンも多く各国語の翻訳も多く、研究者がたくさんいて本を出版したりしている作家だ。20年以上にわたりこの作家をずっと追いかけてきた自分自身が、この国に伝えるべきことがたくさんあると感じている。

彼女の小説の翻訳を出版するということは、わたしが目指しているひとつのステップだ。
何年もの時間をかけて翻訳原稿案はできており、これまで多くの出版社や編集者と掛け合った。しかし、まだ出版は実現していない。

小説で彼女の文章に触れてもらい、魂に何かを感じてもらい、それからもっとベッシーの文章に触れて欲しいと思っている。しかも、もともとアフリカに関心のあるひとたちはもちろん、アフリカにあまり触れる機会のなかった層にも何かを感じ取って欲しいと思う。

遠い国のことが書かれた文章やそこに描かれた人々の心に、あ、これは自分もよくわかると身近さを感じてもらえたらいい。知らないアフリカの国の魂を、自分自身に通じるものとして感じ取ってくれたらうれしい。

出版されている彼女の小説、エッセイなどのほか、研究者は許可を得て閲覧することができるが一般には公開されていない膨大な量の書簡がある。
一部はベッシーの友人などの手により書籍化されているものもあるのだが、大部分はアーカイブに眠ったまま、研究者が論文などに一部引用するのみだ。

わたしがこの美しい文書を通じて何を伝えたいのか。

今明確に言葉にすることは簡単ではないのだけれど、あえて言葉にするのなら「心が動かされること」だろうか。

単に美しく力強いだけではなく、多くのひとの人生(それはベッシー・ヘッド・フェストに集まるような人たちだけでなく、きっと世界中にいる読者を含めて)を変えてしまう魅力のことだろう。

1998年ボツワナ大学で教えていたベッシー・ヘッド研究者の米国人Mary Ledererは、最近出版したベッシーと自らを振り返る著書「In Conversation with Bessie Head」の中で、語っている。

ベッシー・ヘッドという作家は、読むひとが人生のどんなところにいるのかによって変わってくるのだと。そして、自分自身、何十年と彼女の作品を読むうちに、生き方も変わり読み方も感じ方も変わってきたのだと。

Mary Ledererというひとは、文学研究者としてベッシー作品と出会い、やがてボツワナ大学の教員として自らボツワナに移住してしまうようなひとだ。しかも、彼女がベッシー作品に出会った頃はすでに本人は亡くなっていたので、彼女はベッシーに会っていないのだ。
Maryは今でもボツワナに住んでいて、わたしも学生の頃以来メールのやり取りをさせてもらっている。


In Conversation with Bessie Head (English Edition)
Lederer, Mary S.
Bloomsbury Academic
2019-06-27



わたし自身、ベッシー作品に出会ったのは1997年頃。
まだ二十歳やそこらの若くて経験の浅い学生だった。

何も知らないまま熱意だけで飛び込んだボツワナと南アフリカでの2ヶ月。
大学を卒業し、エディンバラ大学アフリカ研究センターで修士課程を終え、その後、日本で勤めた後に2005年から二年間ジンバブエの大使館に勤めた。(本当はボツワナがよかったのだが、当時ボツワナには日本大使館がなかったのだ。でも隣の国にいたおかげでベッシー・ヘッド・フェストにタイミングよく行くことができた)

そして、政府系機関や開発コンサル企業での仕事を経て、現在は6年ほど前から別の開発コンサル企業に勤めている。

その間、もちろん仕事でもプライベートでも色んなことがあった。
この20数年分の時間が、わたしを大きく変えていった。

今、ようやく若い頃の焦りや意地みたいなものがすっかりなくなり、わたしは長い年月をかけてようやくベッシー・ヘッド作品を心から愛し、ほんとうに味わい、魂の奥深くで感動することができるようになってきたような気がする。

遅いようだけれど、これだけの時間が必要だったのかもしれない。

出版はもちろんしたい。多くのひとにベッシー・ヘッドというひとに触れてもらうために。

でも、それ以上にわたし自身の魂のかけらを込めながら、彼女のことをひとつずつ書いていきたいとようやく思えた。それが、最近書き始めたnoteのマガジン『ベッシー・ヘッドとアフリカと』だ。



さらに、肝心のベッシーの書いた言葉に触れてもらう機会を作れればいいと思い、少しずつ文章を引用しながら簡単に紹介するマガジン『雨雲のタイプライター』も始めることができた。



ようやっと、なんだと思う。

わたし自身の人生が色々回って、年齢も40代になり、ここにきて初めて、本当に自分自身の心が求めていることを形にできるようになった。

ベッシー・ヘッドというわたしの人生を変えたひとが亡くなった48歳という年齢まで、わたしもあと数年を残すのみとなった。

さらに、わたしはベリーダンサーとして、ベッシー・アメリア・ヘッドのミドルネームAmeliaを名乗って活動している。
彼女のことを、自分自身の魂として刻み込みたいからだ。
(あと、死んでるから文句言わないかな、と思って…)


ベッシーが亡くなって35年、わたしがベッシーと出会ってから24年あまり経つ。

ライフワークとして、わたしは彼女の言葉や彼女の物語を伝え、それらに触れるひとたちには心を動かしてほしい。そんな風に思っている。



ベッシー・アメリア・ヘッドの命日に寄せて



(ようやくこんな文章がかけたことにちょっと感動)

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note「ベッシー・ヘッドとアフリカと」
note「雨雲のタイプライター|ベッシー・ヘッドの言葉たち」
■ Amelia Oriental Dance (Facebookpage)
■ 『心と身体を温めるリラックス・ベリーダンス』
■ Rupurara Moonアフリカンビーズ&クラフト
 Rupurara Moon African Beads & Crafts
 








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