少し前に以下のようなツイートをした。




5年くらい前にザンビア案件をやってから、まだFacebook上のザンビア駐在さん(主に。違う人もたくさんいる。15,000人ほどの巨大情報交換グループ)のページに登録しているのでときどき流れてくる。

その中で、「ベリーダンサー求む」という投稿に、ベリーダンスを揶揄する吐きそうなコメントがいくつもならんでいた。

無知極まりなく偏見の塊のような浅はかなコメントだ。
(まともなコメントももちろんたくさんあったけれど)

それで、ザンビアのわたしのベリーダンス妹たちZambellyに問いかけてみたのだ。



ベリーダンスを長年やってきて、はっきりいって無知と偏見から非常に失礼な言動を取られることなど日常茶飯事だ。
これはベリーダンサーのみなさんはもう吐くほど知っているだろう。(他のダンスももちろん無知から馬鹿にされること多し)

わたしももう、数え切れないほど嫌な思いをし続けてきた。

無知と無理解、偏見などから、面白おかしいつもりで揶揄するような行動や、いきなり腰をヘラヘラ振って見せたり卑猥なことを言ったり、その場で「踊ってよ〜(面白いと思っている)」などと言われるわけで。

それが相手の人生にとってどれほど大切なものであり、馬鹿にすること、そうでなくともなんとなく下に見ること(ダンスの話になると、あまり重視されないというか、引いた態度を取られるなど)が相手にとってどれほどの不快を与え侮辱行為であるかということに、気づくことは難しいんだろうなと思う。
自分自身が大切にしていることをそんな風に言われたら、きっと嫌な思いをするでしょうに、想像がつかないんだろうな。


そして、直接ならまだしも仮にもネット上だ。

何か「まっとうな」指摘をしたら炎上することが目に見えているし、逆ギレされたりエスカレートしたりという可能性の方がずっと高いだろう。


だから、黙ってきた。

そう、わたしたちは指摘もせず「黙ってきた」のだ。



昨今、ジェンダーがらみの差別発言が厳しく批判されすぐ炎上するようになった。

これは、ますます変な感情的で理解のない方たちの逆ギレを誘うことでもあるけれど、とてもドロドロとしてもちろん避けたいことではあるけれど。

でも、意味があるのだろうなとわたしは最近思っている。


きっとわたしたちは黙りすぎたのだ。

私たち、というのは、「ダンサー」でもあり、「女性」でもあり、女性でなくても差別されることがある人々のことだ。

戦っても仕方がないと思ってきた。もちろん、ひとりが何か言ったところで潰されるかもしれない。
黙っているのはある種「賢明」であるのかもしれない。


だが。


たとえば、セクハラの話に少し置き換えて考えてみてほしい。

わたしもまた、身近な「おっさん」(一例としてね)のセクハラ発言に対し、「またこのひとはこんなことを言ってるわ、へっ」などと完全スルーするようにしてきた。

そうすればその場は「平和」に流れるだろう。

でも、自分自身に向けられた不快な言葉とそれによる嫌な気持ちに対してはどうすればいいだろうか。

自分が嫌な気持ちになったことは事実としてなくならないのに、何もせずそこを「我慢」してあげることにどれほどの意味があるのだろう。

そしてセクハラ「おっさん」は、それを面白おかしいつもりで繰り返すのだ。
で、また別の女性(等)がスルーをして「あげる」

この繰り返しで、自分がちょっと精神的にマイナスを被ることで、その場の余計なエネルギー消耗もなくただ時が過ぎるかもしれない。
そして、社会は変わらないのだろう。


だからこそ、思うのだ。

ネット上での議論などは、大変に不毛なので(わたしはそれをもう嫌というほど知っているので)当然避けたい。

でも、これだけは頭に置いておきたいと思う。

大人対応、大人スルーしてきた自分自身にもまた、罪があるのかもしれない、ということを。

もちろん、シチュエーションや相手にもよる。

でも、何が何でも黙っておくことが良いことではもうない。

感情で対応しては相手が感情で反発するだけなので、ここはどれだけ冷静に論理的に、相手の感情を逆立てないようなわかりやすい「指摘」ができるのかどうか。

それこそが、「大人対応」なのではないだろうか。


もちろん、その場でひとこと何か言っただけで、考え方が変わるほど単純なことはほぼありえない。

差別表現で炎上して、「差別の意図はありませんでした。不快な気持ちにさせたことをお詫びします」というようなまったく理解していないまるで方向違いのテンプレート謝罪文が出るのも、当たり前だ。

だって、理解していないから差別表現をするんだもの。
一度炎上したくらいで、「何故なのか」まで深くすぐ理解できるはずがないでしょうよ。

そして、「無知」を開き直るケースすらある。

あのね、他人を傷つける意図がなかったら差別してもいいとか、無知だから侮辱的なことをいってもいいということには、もちろん絶対にならないんですよ。無意識の差別こそが罪で、意図がなかったらといって差別された人は傷つかないわけがないでしょう。


世界をよくするということは、並大抵のことではない。

でも、誰も指摘をしなければ、世界は絶対に変わらない。

そして、世界が変わらなければ、やっぱりまたベリーダンサーを侮辱したり軽視したり、セクハラをしたりということが永遠に繰り返され、自分だっていつまでも嫌な思いをし続けることになる。

いずれにせよ、気が遠くなるような話だ。


でもせめて、自分の身近にいるセクハラ発言を面白おかしいといまだに思っている「おっさん」に対して、親切に指摘をすることは必要なのだと思う。それには、少しだけ腹をくくって、感情ではなく知恵を使って、大人として責任を持って発言をするということが大切なのだ。

批判ではなく、非難ではなく、発言。

そんなことを最近は考えている。

セクハラ発言が、いつまでも心にささくれのように不快感を残し続けるのは、もう嫌だなとおもうから。


わたしは、ベリーダンスを愛し、芸術としての深さと個人の人生の鏡のような奥深い世界に魅了されている。この芸術を、人生の中で大切にしている。
もちろん、楽しいこと苦しいこと、色々ある。それら全てが幸せだと思っている。


だから、私に数年ぶりに会っていきなり「踊ってる〜??(腰クネクネ)」とか、えっとね、激しく失礼なのですよ?


以上


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