2001年は、エディンバラ大学のアフリカ研究センターで修士課程に在籍していて、まさに修士論文提出の一週間前に911が起きた。

わたしは大学寮に暮らしていて(17世紀だかの歴史ある建物を改装した赴き深い寮だった)、テレビはコモンルームと呼ばれる共有のリビングのものを観ていた。

アメリカ人のフラットメイトの叔母さんがアメリカから電話してきて、午後二時ごろだったか、いったい何が起きたのだかわからなくて、とにかくテレビでニュースを見ようとコモンルームにいくと、世界各国から来ている留学生(大学院は留学生の割合が圧倒的)が、みんなことばもなくBBCを観ていた。

BBCから繰り返される、「カミカゼ」ということば。
まるで日本がこの犯人であるかのような言い方を、いちばん最初はしていたような気がする。

その後、「テロとの戦い」という言葉が出てきた。
(前からあったのかもしれないけれど)

今でもわたしは「戦い」ということばに違和感を感じる。

戦うということは同じ目線で同じ立ち位置で、武器を使って攻撃を加えること?
つまり罪もない市民の命を奪うということ。

つまり、憎しみの連鎖になるということ。

どうして、「テロ」のことになると、防止とか予防とかいったことばにならない?弱いから?


あれから12年経ったけど、世界はどのくらい進歩しているのだろうか。

シリアを始め、多くの国で血が流され、大国は武力を駆使し、そして我が国もまたとんでもない方向へ進もうとしている。

事例をひとつ。

オリンピックはすでに決まったことだから仕方がないじゃない、とわたしが考えているのだと誤解した方がたぶん少なくないと思うのでここにもう少し書くと、わたしが共感できないのは「オリンピック」なら「オリンピック」ということだけに対し、怒り、激しい批判をするということ。

もちろん、「声をあげる」というのは大切だ。納得いかないことには声を上げましょう。

でも、あのように派手に取りざたされないまま、国家レベルから日常レベルまで、ものすごくたくさんの理不尽なことや多くの人が「怒る」であろうことが無数に起きていて、どうしてそれらすべてに対しておこらないの!?と思う。
もっともっと、いろんなことが起きているんだよ!と言いたい。


ひとつのことを大きく取り上げれば、無数の理不尽なことが知られることのないまま、葬られる。
まるで、問題はオリンピックのことだけみたいになってしまう。それは誰かさんの思うつぼだったりするのではありませんか?
それがたまらなく苦しくなる。

わたしだって、もっとあんなことやこんなことも見てしまったのに、そのひとつひとつに対して怒ってすむものなら、それはもう激しく怒りますよ。
でも問題はそう簡単じゃない。

問題には、理由がある。背景がある。
それはただの氷山の一角だとおもう。



だから、テロ=戦う!ではなく、もっと包括的なトータルな「大人な国家」としての対応ができないものかと思う。

そしてそれらを担っているのは我々国民のひとりひとりだということ。

そういうことを考えているわたしは今日もまた、「理不尽」なことへの「怒り」ではなく、自分にできる限りの解決策を探そうと取り組んでいます。

だから、皆さんも、そうしませんか?


ま、ただの提案ですけど。



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