ものごとにはたくさんの側面があって、ひとつの問題だけ捉えていては結局何の解決にもならない。
なんてことは、どのレベルにだってある。
人間関係然り、職場組織然り、政府や国家レベルだっておんなじ。
自分自身の中の「葛藤」みたいなものですら、そう。
そんなことはわかっているなんていいつつ、人間って生き物の脳みそには変なプログラムが組み込まれていて、まず「怒り」を誰かにぶつけられたらこっちにも「怒り」が生まれるし、相手を非難したくなるし、自分を被害者に仕立ててみたり、とにかくいろんなことをする。
ものごとには別の側面があるということを考える部分を、そのプログラムは自動的に制御してしまうのだ。
そして、そこに生まれた「感情」プログラムを強化するような根拠を無理やり集めていく。
仲たがいはそうやっておきる。
戦争はそうやっておきる。
ODAのプログラムを取り上げて、悪い側面を論拠を集めて批判する声はもう昔からあるけれど、わたしはそれを残念だなと思う。
誤解をおそれずに言ってしまえば、そのような批判は、概ね正しい。
残念ながら、もっともなのだ。
そして、ODAプログラムの「こりゃひどい!」なんていう面は、昔からもういくらでもある。
ひとつひとつ取り上げて大声で怒りの声を上げたところで、きりがないのだ。
批判のポイントは正しい。
でもほんの一側面だけ見た真実なんだと思う。
ODA案件が作られていく中で、どれほどたくさんの議論があり異論があっても結局、何かの力で決まってしまうことはあるし、たくさんのバイアスはあるし、ともかくいろんな要素がある。
一部分の「もっともなこと」を責めても、まるで通じないのは当たり前だと思う。
だから、もっと根本的なところで、建設的な戦略をたてていかなければならないとは思っている。
でも、わたしはたぶん、それを主体的にすることはいまのところ考えていない。
大学を卒業後、英国の大学院でアフリカ地域研究の修士課程を修了した。
民間企業の正社員として営業もしたし、いろんな仕事をした。
NGOでの活動もした。
開発コンサル会社でも仕事をしたし、その後は、外務省やJICAの仕事をした。
そして今もまた政府系機関でBOPビジネスのことをやっている。
多くの組織で仕事をした経験から、「戦っても仕方がない」ということを学んだような気がする。
これは一見ネガティブなようだけれど、たぶん、個人の人生を建設的なものにするためには、とても重要な要素なのだと思う。
どの組織にも大きな問題はあった。
でも、いくら自分が「まっとうだ」と思うことを言ったところで、やっぱり問題はなかなか変わらない。
政府系の仕事をしてからは、そういう「問題」を国家レベル、世界規模での搾取や欺瞞として、ともかくたくさんのことを目の当たりにしてきたつもり。個人としてとてもパーソナルな部分でアフリカとつながっていたい自分としては、すごく苦しいことがたくさんあった。
それは純粋に、「開発をやりたい」と思っていたのでは、この世界では生き延びられないことを意味する。
いくつか学んだ重要なことは、ものごとの成り立ちのなかにはポジティブな側面もあって、それを無視してはいけないし、わからないことを推測で決めつけてはならない、ということ。
それから、絶対に自分の芯を崩さないことだ。
ODAだってそう。もちろん、プラスの面はいろいろある。
ムガベ大統領だってそう。彼が「独裁者=悪」であると決めつけるほど恐ろしいことはない。
飛行機のなかで赤ん坊の泣き声がうるさいと大騒ぎをしたひとだってそう。彼女の行為は非常に突飛で迷惑極まりないかもしれない。
だが、もし自分自身がアフリカ出張で二日近くにわたる長距離フライトを経て疲労しているうえに、成田に着くまでに報告書を仕上げなくてはならなかったとしたら、飛行機のなかで泣きわめく赤ん坊を「赤ちゃんだから仕方がないよね」と一ミリものいら立ちを持たずに100%の広い心で受け止められる自信はない。
(彼女を責めまくったひとたちはちがうのかもしれないけど、わたしはだめだな、と思う)
彼女を責める声は大きかったけれど、確かにその通り迷惑行為なんだけど、でもほんとうにそれ以外に何の要素もないのだろうか。JALの対応は、ほんとうに100%すばらしかったのだろうか。周りのひとも、泣き声に苛立っていたのではないだろうか。
彼女だけが完璧な「悪」なんだろうか。
わたしはいつも、そういうことに疑問を感じる。
「悪い」と決めつけてしまうことに、いつも怖さを感じる。
「怒り」の感情は、他人の「怒り」の感情に触れて増幅する。
そうなると、どんどん物事がみえなくなってくる。
そしたら、解決の出口はなくなってしまうのだ。
ODAに対する批判は、まさにこれだと思う。
別の側面。もっと大きなレベルの側面。
わからないことについて思いを馳せることはむずかしいし、人間、知っていることを並べ立てて結論づけたり、誰かが言っていることをそのまま自分の意見だと思い込もうとしたりする。
そして安心をしようとする。
いつも、大学で講義をさせていただくとき、大学生のひとに知ってほしいなと思うことはこういうことだ。
つまり、BOPビジネスなんていうものは、正確な定義があるわけでもないし、わたしが解答を教えてあげるわけではまるでない。
こんな議論が存在する、こんな問題や可能性が存在する。
そういう「わからない」部分をたくさん提示し、あとは学生が自分自身で納得いくまで考えてほしいと思っている。
ものごとにはたくさんの側面があるのだということを。
明治学院大学の勝俣先生もおっしゃっているけれど、大学は「考える」場所なのだ。
ひとつのことを声高に責めるには、この世界は歪みに満ちすぎている。
そういうことをするひとはある意味、純粋ないいひとなのかもしれないけど。
だから、残念だな、というのが結論。
ODAの問題はもっともっと大きなところから世界が変わらないとたぶん根本的な解決にはならないし、一杯のスターバックスのコーヒーが出てくるまでのコーヒー業界の成り立ちなんかもそうだ。
だから、いい意味で力を抜いていきたいと思ってる。
強い批判を脳内強化していては、別の側面がみえなくなるから。
力を抜いたら、解決の糸口が見えてくることもあるから。
なんてことを、最近思ってる。
てか、長いね、コレ。

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なんてことは、どのレベルにだってある。
人間関係然り、職場組織然り、政府や国家レベルだっておんなじ。
自分自身の中の「葛藤」みたいなものですら、そう。
そんなことはわかっているなんていいつつ、人間って生き物の脳みそには変なプログラムが組み込まれていて、まず「怒り」を誰かにぶつけられたらこっちにも「怒り」が生まれるし、相手を非難したくなるし、自分を被害者に仕立ててみたり、とにかくいろんなことをする。
ものごとには別の側面があるということを考える部分を、そのプログラムは自動的に制御してしまうのだ。
そして、そこに生まれた「感情」プログラムを強化するような根拠を無理やり集めていく。
仲たがいはそうやっておきる。
戦争はそうやっておきる。
ODAのプログラムを取り上げて、悪い側面を論拠を集めて批判する声はもう昔からあるけれど、わたしはそれを残念だなと思う。
誤解をおそれずに言ってしまえば、そのような批判は、概ね正しい。
残念ながら、もっともなのだ。
そして、ODAプログラムの「こりゃひどい!」なんていう面は、昔からもういくらでもある。
ひとつひとつ取り上げて大声で怒りの声を上げたところで、きりがないのだ。
批判のポイントは正しい。
でもほんの一側面だけ見た真実なんだと思う。
ODA案件が作られていく中で、どれほどたくさんの議論があり異論があっても結局、何かの力で決まってしまうことはあるし、たくさんのバイアスはあるし、ともかくいろんな要素がある。
一部分の「もっともなこと」を責めても、まるで通じないのは当たり前だと思う。
だから、もっと根本的なところで、建設的な戦略をたてていかなければならないとは思っている。
でも、わたしはたぶん、それを主体的にすることはいまのところ考えていない。
大学を卒業後、英国の大学院でアフリカ地域研究の修士課程を修了した。
民間企業の正社員として営業もしたし、いろんな仕事をした。
NGOでの活動もした。
開発コンサル会社でも仕事をしたし、その後は、外務省やJICAの仕事をした。
そして今もまた政府系機関でBOPビジネスのことをやっている。
多くの組織で仕事をした経験から、「戦っても仕方がない」ということを学んだような気がする。
これは一見ネガティブなようだけれど、たぶん、個人の人生を建設的なものにするためには、とても重要な要素なのだと思う。
どの組織にも大きな問題はあった。
でも、いくら自分が「まっとうだ」と思うことを言ったところで、やっぱり問題はなかなか変わらない。
政府系の仕事をしてからは、そういう「問題」を国家レベル、世界規模での搾取や欺瞞として、ともかくたくさんのことを目の当たりにしてきたつもり。個人としてとてもパーソナルな部分でアフリカとつながっていたい自分としては、すごく苦しいことがたくさんあった。
それは純粋に、「開発をやりたい」と思っていたのでは、この世界では生き延びられないことを意味する。
いくつか学んだ重要なことは、ものごとの成り立ちのなかにはポジティブな側面もあって、それを無視してはいけないし、わからないことを推測で決めつけてはならない、ということ。
それから、絶対に自分の芯を崩さないことだ。
ODAだってそう。もちろん、プラスの面はいろいろある。
ムガベ大統領だってそう。彼が「独裁者=悪」であると決めつけるほど恐ろしいことはない。
飛行機のなかで赤ん坊の泣き声がうるさいと大騒ぎをしたひとだってそう。彼女の行為は非常に突飛で迷惑極まりないかもしれない。
だが、もし自分自身がアフリカ出張で二日近くにわたる長距離フライトを経て疲労しているうえに、成田に着くまでに報告書を仕上げなくてはならなかったとしたら、飛行機のなかで泣きわめく赤ん坊を「赤ちゃんだから仕方がないよね」と一ミリものいら立ちを持たずに100%の広い心で受け止められる自信はない。
(彼女を責めまくったひとたちはちがうのかもしれないけど、わたしはだめだな、と思う)
彼女を責める声は大きかったけれど、確かにその通り迷惑行為なんだけど、でもほんとうにそれ以外に何の要素もないのだろうか。JALの対応は、ほんとうに100%すばらしかったのだろうか。周りのひとも、泣き声に苛立っていたのではないだろうか。
彼女だけが完璧な「悪」なんだろうか。
わたしはいつも、そういうことに疑問を感じる。
「悪い」と決めつけてしまうことに、いつも怖さを感じる。
「怒り」の感情は、他人の「怒り」の感情に触れて増幅する。
そうなると、どんどん物事がみえなくなってくる。
そしたら、解決の出口はなくなってしまうのだ。
ODAに対する批判は、まさにこれだと思う。
別の側面。もっと大きなレベルの側面。
わからないことについて思いを馳せることはむずかしいし、人間、知っていることを並べ立てて結論づけたり、誰かが言っていることをそのまま自分の意見だと思い込もうとしたりする。
そして安心をしようとする。
いつも、大学で講義をさせていただくとき、大学生のひとに知ってほしいなと思うことはこういうことだ。
つまり、BOPビジネスなんていうものは、正確な定義があるわけでもないし、わたしが解答を教えてあげるわけではまるでない。
こんな議論が存在する、こんな問題や可能性が存在する。
そういう「わからない」部分をたくさん提示し、あとは学生が自分自身で納得いくまで考えてほしいと思っている。
ものごとにはたくさんの側面があるのだということを。
明治学院大学の勝俣先生もおっしゃっているけれど、大学は「考える」場所なのだ。
ひとつのことを声高に責めるには、この世界は歪みに満ちすぎている。
そういうことをするひとはある意味、純粋ないいひとなのかもしれないけど。
だから、残念だな、というのが結論。
ODAの問題はもっともっと大きなところから世界が変わらないとたぶん根本的な解決にはならないし、一杯のスターバックスのコーヒーが出てくるまでのコーヒー業界の成り立ちなんかもそうだ。
だから、いい意味で力を抜いていきたいと思ってる。
強い批判を脳内強化していては、別の側面がみえなくなるから。
力を抜いたら、解決の糸口が見えてくることもあるから。
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