4d59433b.jpgネットのニュースで、「ルワンダの性的暴行被害者の写真、英コンクールで受賞」との記事がある。
(写真は、ロイターのページより)


正直、逃げるようだけれども、わたしはきっとジャーナリスト向きではないと思う。勇気が足りなくてファインダーを向けることができないかもしれない。


この記事にもあるが、この写真を撮ったイスラエルの写真家は、写真などの収益をこういった子どものための教育に充てているとのことらしい。勇気ある行動、なのかもしれないな。


自分は文章を書くし、写真を撮るけれど、きっとジャーナリストにはなれない。他人について書くということ。しかも、新聞やテレビなどの媒体を使って、それが一般に流れていくわけだ。ときには、書きたくないこともあるだろうし、目をそらしたいこともあるだろうし、相手に疎まれることもあるだろう。蔑まれることもあるだろう。自分自身の生命を危険にさらすこともあるだろう。

それでも、ジャーナリストのひとたちを動かしているのは、信念だろうか。それとも正義感だろうか。情熱、あるいはそれらすべてか。


この写真を撮ったということは、この写真に写っている女性のきちんとした許可を得ているのだろうけれども、それもまた勇気のいることだ。

ルワンダの虐殺でレイプされて焼き殺された少女の遺体(だったか写真だったか)が虐殺博物館に展示されている様子という写真を、ある研究者兼活動家が講演で見せたことがあった。黒焦げになった遺体は見るも無残で、皆がうっと眉をひそめた。胸が詰まるくらいの悲劇に満ちていた。

それに対し、わたしが常々尊敬しているある女性がはっきりと言った。


なんとむごいことでしょう。
ここに展示されている彼女が、あなたのお姉さんだったらどう思いますか?娘だったら、どう思いますか?


このことばは、何年か経ったいまでもわたしの心のなかに深く刻み込まれている。


ジャーナリストや、このようなむごい歴史を忘れないための博物館などの仕事は、伝えるべきことがあるから遂行されている。もちろん、上の二つの事例を全面的に否定するわけではない。
だけど、ときに度を過ぎてしまうこともある。相手を人間として尊敬し、きちんとした理解と同意を得るということを忘れがちになることもある。
「対象」ではない。人間なのだ。

そしてこれは、わたしたちのようなアフリカ研究者の世界も似ている。

とてもとても、難しい世界。


ジャーナリストは、センセーショナルな話題を提供する。でも、問題が根本的に解決したりするわけではない。いわば、第三者的だ。


わたしは、わたしなりに書いていくつもりではある。やっぱり勇気も足りなくってこういうジャーナリストにはなれないけれど、何もアフリカのことを考えたことのなかった日本の人たちに、ああ、アフリカってかわいそう、などと思われないような、対等な目線のことばを発していければと思う。

そしてわたしは、もっともっと深く関わっていたいのである。



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