なんで初めて彼女のことを知った90年代から、こんなに人生変わっちゃうまで彼女のことがいつまでも「気になる」のか、彼女と心が強烈に「つながっている」気がするのかわからないけれど、たぶんそれはとてもパーソナルなことだからだ。

というのは、さておき。


 ダウンロード

作家ベッシー・ヘッド(ベッシー・アメリア・エメリー)が亡くなったのは1986年4月17日。
今日は、命日から一日過ぎてしまったけど。

もう31年目になるのか。

もちろんわたしは、実際の彼女に会ったことがない。
息子さんや、親しくしていた周囲のひとに会ったことがあるだけだ。



わたしが、90年代からもうずっと「アフリカ」なのは、大学時代の先生、そしてこのベッシーの存在があったからに尽きる。

1998年、大学生だったわたしは、この作家ベッシー・ヘッドに「会いに」ひとりでボツワナに行った。
そしてそれからずっと、アフリカと関わっている。

という話は、Kindleのエッセイ本に一通り書いている。




読んでくださった方、ほんとうにうれしい。ありがとう。

まだ読んでいらっしゃらない方、読んでもらえたら照れるけどうれしい。(笑)




105b7ba0

↑当時ここに泊まった。

(ボツワナのセロウェ村の博物館の宿泊施設。いや、もちろん近所にちゃんとしたホテルはあるんだけどね、当時大学生だったし)

botswana3

↑ベッシーの墓石に触ってみた。


images


↑彼女のノートや原稿、メモ帳の数々。おびただしい数の原稿や書簡がある。これを調べに行った大学生の私。



そしてもちろん。

アメリアというわたしのダンサー名。

Bessie Amelia Emeryのミドルネームから頂いている。

彼女の言葉のかけらや声は、わたしの中に生きているというのを、名前という形で魂にメモっておきたくて。

だから、Amelia

5253a6c5


エッセイ本、見てね。



そうそう、ベッシーってこんなルックスだけど、書く言葉はときに激しかったりとても美しかったりするけれど、ものすごく優しくて静かな声で柔らかなしゃべり方をするひとなんですよ。

なんで知っているかって?

ふふ


bessie-head-1-sized


ベッシー・アメリア・エメリー(ベッシー・ヘッド)
一九三七年七月六日、南アフリカ共和国ナタール州ピーターマリッツブルグのフォート・ナピア精神病院にて生を受けた。母は白人、父親は黒人。一九二七年に人種間の性行為と恋愛・結婚を禁止する「背徳法」施行された後だったため違法出生となる。母親はイギリス系の白人女性で、経済的に裕福な家の娘であった。入院していた精神病院でベッシーを出産。父親はアフリカ人であるらしいということはわかっているものの、情報は全く残されておらず、一九四三年に亡くなってしまった母親のみが真相を知る謎となっている。
ベッシーの母親は、当時人種差別主義的な法律が整備されていく南アフリカで、「黒人の子どもを身ごもったため、家名を汚さぬよう、一族が彼女を狂人として精神病院に幽閉した」と言われているが、彼女の一族が生まれる前のベッシーを「カラード」だと知っていたとは考えにくい。
精神病院で生まれたばかりのベッシーは、一度はアフリカーナー(オランダ系白人)の家庭に里子に出されるが、何かおかしいとつき返される。肌が浅黒かったからだ。そして、ベッシーはカラードの夫婦に里子に出され、養父母を実の父母と思って育つ。六歳の時、実母は精神病院で亡くなり、幼い娘の教育のために財産を残す。何も知らないベッシーは十三歳になると、養父母の家庭の経済事情悪化に伴いダーバンの英国国教会系孤児院セント・モニカで学校に通うようになる。初めてのクリスマス休暇がやってきて、実家に帰ろうとする十三歳のベッシーを孤児院の院長が呼びつけ、彼女が一生涯忘れられないような台詞を言うのである。
「あなたは、あの女性のところに帰ることはありませんよ。あの女性はあなたの母親ではありません。あなたの母親は白人で、頭がおかしかった。馬屋番の男の子どもを身ごもったから精神病院に入れられたのです。あなたも狂ってしまわないように気をつけないといけませんよ」
やがてダーバンで教員になるものの二年間で退職、ジャーナリストとしてケープタウンやヨハネスブルグで、タブロイド紙のゴールデン・シティ・ポストなどに勤め、記事を書き始める。一九五〇年代から一九六〇年代にかけて、南アフリカは反アパルトヘイト闘争が激化し、多くの活動家が逮捕され弾圧され、亡命をしていた。嵐のような時代、ベッシーはジャーナリストとして働き、政治活動にもかかわる。
ジャーナリストのハロルド・ヘッドと結婚し息子をもうけるものの、結婚は失敗する。一九六四年、政治活動にかかわっていたため南ア政府からパスポートが降りなかったベッシーは、二度と南アフリカへの帰国を許さない出国許可証を手に、ボツワナ(当時のベチュアナランド英国保護領)に亡命する。その二十二年後、アパルトヘイトの終焉を見ぬままボツワナのセロウェ村で亡くなるまで、南アフリカには戻ることがなかった。
ボツワナでの彼女の生活は貧困と孤独を極める中、ベッシーはボツワナの農村をモチーフとして作品を描き続ける。しかし、孤独と貧困の中で、彼女はやがて精神を病む。カラードという人種的カテゴリー、天涯孤独の身で国籍もない。民族的アイデンティティもなければ母国語としての民族語も持たない。そして、ボツワナの国籍も得られぬままに自給自足に近い生活を送った。
彼女の小説が本になるのは亡命してから数年後、主に七〇年代からであった。どんどん名前は売れ、有名な作家として活躍しつつあったところへ、八六年、肝炎になった。四十八歳の、早すぎる死であった。
二〇〇三年、ベッシー・ヘッドが最後まで戻ることのなかった南アフリカの政府は、芸術・文学・音楽・ジャーナリズム・スポーツの分野で功績を残した人物に与えられる勲章「Order of Ikhamanga」(ストレリチア章)を授与した。また、二〇〇七年、ボツワナ大学とカーマ三世記念博物館関係者を中心にベッシー・ヘッド・トラストが設立され、彼女の功績を広めるとともに、彼女にちなんだ文学賞や奨学金、コンペティションの開催などを積極的に行っている。


11/23『シークレット・ガーデン』出演者募集しています。Facebookページをチェック!


■ ↓↓ Kindle本を出しました! ↓↓




■noteマガジン 『ざんざんザンビア日和』

『ベリーダンサーのためのバレエ・エッセンス』(不定期開催WS)

にほんブログ村 海外生活ブログ アフリカ情報へ 
アフリカ(海外生活・情報)ランキングへ

 ↑ ★ 読まれましたらクリックをお願いいたします! ★ ↑

■オンラインショップ

 ☆゚+.☆゚+.☆゚+.☆゚+.Rupurara Moonアフリカンビーズ&クラフト


■Twitter
africanwhaleをフォローしましょう

■Facebook Page
Facebook "Rupurara Moon African Beads and Crafts"