まず、大切なことを書いておこうと思います。

作家ベッシー・ヘッドに関することです。


1937年、南アフリカはピーターマリッツブルグに生まれた「カラード」で、アパルトヘイト下の激動の南アフリカを生き抜き、人種と政治とジャーナリズムの混沌の中で26歳でボツワナに亡命し、22年後、48歳で亡くなったベッシー。

わたしのこれまでの13年間は、彼女とともにありました。
彼女の文章と出会い、実際に会ったことはなかったけれど、わたしは彼女をずっと一方的なソウルメイトとして生きてきました。


初めてボツワナを訪れた1998年、わたしは大学四年生でした。
セロウェ村の博物館の小さな小屋に泊まり、文献調査をしました。
たくさんのひとに出会いました。ベッシーのひとり息子、ハワードにも会いました。


その後、ベッシーの暮らしたセロウェ村を再訪したのは9年後の2007年のこと。
彼女の生誕70周年記念に、世界中の研究者が集まり、シンポジウムやたくさんのイベントが行われました。

多くの論文や著書のなかで名前をみかけたベッシーの身近なひとたちや研究者たちに会い、わたしにとってはこの上なく貴重な時間でした。

そのときの写真はこちらのアルバムに


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ベッシーの息子ハワードは、わたしの名を覚えていてくれました。
色んな立派な研究者が彼を訪れるだろうに、9年前に訪れた大学生のわたしを覚えていてくれたことには、ほんとうに感動しました。



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そんなハワードが、その3年後の今年5月に亡くなったそうです。


ボツワナ大学のいつもわたしがお世話になっている先生がメールで知らせてくれました。
ハワードの詳しい病名は知らされていません。

まだ、49歳になったばかりだったはずです。


ハワード。
1964年、まだ小さかったころにベッシーに連れられて当時の英国保護領ベチュアナランドに亡命したハワード。それからずっと、どこかへ暮らしてもまたセロウェ村に戻ってくる人生でした。1986年にベッシーが亡くなってからも、彼女の建てた家に暮らしていました。


ベッシーは、48歳の若さ、ちょうど49歳になる少し前に肝炎で亡くなっています。

こんなことってあるでしょうか。

そして、ベッシーの母親である南アフリカの白人女性ベッシー・エメリーも、1943年、やはり49歳で亡くなっているはずだったと思います。

ここに何の意味があるのですか。

ベッシーの人生はあまりにも苦しく激しくドラマティックで、わたしは彼女のことをいつも考えるのです。
2001年に書いた修士論文は、彼女にdedicateしました。


でも、「問い」は、わたしのなかに残っている。
わたしと、ベッシーは何なんだろうと思ってる。

自分が生きていくなかでどんなことをしなくてはならないのか、未だにうまくつかめていないのかもしれない。


ハワード、わたしを覚えていてくれてありがとう。

1998年、おうちを訪ねたときに出してくれたマグカップから溢れそうなファンタ・オレンジとあなたの横顔は忘れません。
あのとき話したことも、ちゃんとこころの抽斗にしまってあります。



あなたは、ベッシーと同じ墓地に眠り、ほんとうにボツワナに骨をうずめることが出来たということなのでしょうか。
それは、Gesture of Belonging〜故郷のないものの「帰属」のしぐさ〜なのでしょうか。

・・・。


さようなら、ハワード。


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