夕べ、何故か午前三時に書いたカメムシに関する記述だけれどもね、なんかこころに引っかかることがあって明け方まで眠れませんでしたよ。

例の朝日新聞でジンバブエのマシンゴあたりでは干したカメムシを食べるという内容のコラムがあったわけですが、それについてけっこうブログに書いている人がいる。それでもって、「日本に生まれてよかったー」と結んでいるひとが実は少なくないわけなんですね。

それをみてわたしは、
はぁ!??
・・・って思うわけですよ。

まず第一に、「日本に生まれてよかった→カメムシを食べずにすんでよかった→カメムシを食べる=苦行」という図式があるわけですよね、これを書いたひとの頭のなかには。

ちょっと待った。

マシンゴのひとにとって「カメムシを食べる=苦行」であるはずはない。むしろ、デリシャス・デリカシーですよ。子どものころから普通に食べていれば、平気なはずでしょ?
これが「大人になるためにマシンゴの住人がとおらなくてはならない苦行」だったらともかく、普通に「美味しいもの」なのだから日本に生まれてよかった、ってことにはならないよね。向こうの人にとっては普通だから。

たとえば、アメリカ人やなんかが日本の海苔によくショックを受ける。(真っ黒いからね)で、日本人がそれを食っているのを見て、「うわー!!食ってる!!オレ、アメリカに生まれてよかったー!!」って言うのをみたら、どうだろう?変でしょう?

これこそ「日本中心の発想」だよね。
映画『サユリ』を頭から酷評する連中とおんなじ。なんにも見ちゃいないよね。

アフリカの一般的なひとたちにとって、日本なんてただのサムライでチョンマゲでゲイシャでトヨタでクンフーなのよ。
それと同じくらい、「日本中心の発想」を持つ人たちは他の国や文化に対して偏見をたっぷり持っているわけですよ。アフリカをひとつの国だと思っていたりね。
そういうことに気づかずに一生幸せに暮らして死んでいく人もいるのでしょうけれど、それってわたしからみればあまりにも可愛そうな人生ですよ。

このコラムを書いた松本仁一さんは、きちんと「日本の信州など内陸地方では魚が捕れないからかわりにタンパク源としてイナゴの佃煮などを食べる文化が発達した」というような内容に触れている。
このひとは、例の16回のジンバブエ連載をしたひとだけれど、きちんとそうやって日本のことにも触れるよう意識しているみたい。

それはわたしも同じ。
アフリカのことなどを書いたとき、できるだけ「日本でもこうだよね」という内容を書くようにしている。それは、わたしが書いた文章を読む日本人にとって、アフリカが単なるエキゾチシズムとしての興味本位の「対象」としてではなく、もっと身近な、「ああ、自分たち日本人といっしょなんだな」と思えるようなものであってほしいからだ。

だから松本さんは、「カメムシ」を食べることが決して「特異」なことではなく、日本でも似たようなことがあるわけだね、という書き方をして、読者になるほどと思って欲しいわけなのだ。だからイナゴを引き合いに出したのだ。

「カメムシ!!?うえーっ!!」ではない。
「カメムシ!ああー、そうなんだー。日本で言うイナゴみたいなもんかー」なのだ。

だから、「日本に生まれてよかった」と書いた人間には、このコラムの真意が伝わらなかったということになる。
そこには、カメムシー!うえー!ジンバブエ最悪ー!という図式が生まれてしまっているから。

でしょ?



↓ありがとう。

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