一枚の絵のイメージが、頭に思い浮かんでいる。
そしてわたしはそれを、身体中で感じることができる。

とても淡い平坦なパステルカラーで描かれた、海辺の白い家とそのテラス。先に広がる海は、また淡いブルーでどこまでも続いている。すごくやさしげな色合いで、とてもシンプルで平坦で、それでいて温かく淋しいのだ。
手前には淡いグリーンが広がり、テラスのところにやさしく自転車が立てかけてある。
そして、音もなく静かなやわらかい雨が降り注いでいる。
空は、雲に覆われていて、そして静かに明るい。

これは昔からわたしの実家にあるシンプルな絵である。
しかも、おかしなことに、わたしはおそらく同じ作者が描いたのであろうその何枚かの絵を、こうしてイメージの中で一枚の絵に合体させてしまっている。

でもわたしは、この絵の風景を、空気を、身体でほんとうに感じることができる。その風のにおいや感触まで知っている。

それはきっととても遠い懐かしい場所で、そして誰もいない。
そこにあるのはやわらかい風だけで、それはわたしを突き放しもせず包みもしない。ただ、どちらかの方角からもう一方の方角へと、やさしく通り抜けていくのである。わたしはそこでの孤独な生を全うせねばならないのである。やさしく、静かに。


木曜日に体調を崩した。
ひどい風邪だといわれたが、木曜日は一晩中、そして金曜日は朝から晩まで、胃が空になってもひっきりなしに嘔吐した。胃腸の状態は最悪で、苦しみぬいた。月曜日のいまでも、胃の調子は戻っていない。
何年も前からわたしにはときどき胃腸が非常にだめになる時期がくるようになっているらしい。一度はそれで入院したこともある。ともかくひどいのだ。いちどそういうことがあるとクセになるのかもしれないが、ともかくこれは苦しい。

貴重な連休であった金曜日から月曜日までの四日間をケープタウンで過ごそうとしていた計画も、これでキャンセル。9年ぶりに訪問するケープタウンのはずが、「おじゃん」というわけである。


恋人に何度か電話をかけたのと、何本か見舞いの電話があったのと、それから職場のひとが親切にもお粥をつくりにきてくれた(おいしかったけど、あとで吐いた。ごめんなさい)の以外、外界を遮断している。
(でもミクシィは見た)

毎日毎日、課題を抱えすぎだったのだろう。
何せわたしは、ほんとうの意味で「暇」になることがない。
ありとあらゆる課題を、自分の中で構築してしまうからだ。

この四日間、何も「仕事」をしないことに決めた。
まぁ、来週から精を出せばまずいことはない。はず。だ。違いない。

そして、わたしは仕事上のわたしでもなく、「あふりかくじら」でもなく、一個人として四日間をほとんどずっとベッドの上でときを過ごしている。

家にあるDVDというDVDを観尽くした。
好きな映画、好きな小説。読んでいないでほおってあった小説。
そして、音楽を聴きながらベリーダンスのイメージトレーニングをした。(ほんとうに踊った気分になってしまい、少し気分が悪くなった)
イメージトレーニングというのは重要である。昔クラシックバレエに夢中だった少女時代、ずっとイメージトレーニングをしていて、フェッテがほんのちょっとだけできるようになったくらいだ。
もう、たいていの普通の音楽ならばベリーダンスで踊れる気がする。わたしはノリの良いのが好きだけれど。

何者にも邪魔されない、完璧な個人としての休日。
わたしは、テラスで外をぼんやり眺める他は、買い物にも出ていない。昨日よりは回復して出歩けそうでもあったけれど、大事をとることにした。
今日は、林檎、そしてジャガイモのスープを食することができた。

手付かずのままの完璧なる休日に、わたしはそして、一枚の絵のことを思い出している。すごく遠い時間。わたしがわたしだけになる瞬間。
目を閉じる。
そして、このコンプレックスのそとにある小さな林の木々のざわめきを聴き、こぼれ落ちる日差しに目を細めながら、部屋を通り抜ける風にその絵のなかの風を感じている。

あれは、紛れもなく少女時代に感じたアラスカの空気だ。
あの遠い澄んだ静けさだ。


そして、四日目の今日。
明るい外の日差しを見てわたしはジンバブエが無性に「懐かしく」なった。
この国が好きなのだ。
わたしは一生、アフリカに関わり、ジンバブエを愛するであろう。

どうしても、明るい日差しの中、旅に出たくなった。
長距離バスに乗って、どこまでも。
愛おしいジンバブエのなかを。



次の旅は、東だよ?